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 「KARA・KARA」 (4/6)
 鈍く、絶え間なく指先が疼いていた。いや、それ以上に胸が締め付けられるような疼きの方が辛かった。薄闇に浮かぶ時計が指しているのは午前二時。さっき見たのは一時半。いくらかどころか、これっぽっちも眠っていない。ずっとうつらうつらの状態が続いていた。

 何気なく額に手をやると、ぐっしょりと汗が滲んでいた。

 右手の中指に巻かれているのは夜目にも白い包帯。実験中にガラスで切った。 大きな傷ではないが、ガラス独特のすっぱりとした切り口は意外と深いものだった。血は完全に止まっていたが、それと入れ替わるような鈍い熱が俺を悩ませていた。この指の傷の疼きは我慢出来ても、胸を締め付けられるような胸の疼きはどうしようもなく辛かった。

 俺はこの疼きの原因をいつの間にか薄闇の中に思い浮かべていた。


 「山中ちゃん、帰ろっ!」 
「……えっ! あ、ああ……」
「……? ちょっと! 何よ、そのハンカチ!」
「いや…… 別に大したことじゃあ……」
「なくなんかないわよっ! どーして先生や補助の院生に一言、言わないのよ?」

 同期の山内や佐野達を従えてやって来た綾原は目敏く俺の指先を見咎めると、 きゃんきゃんと喚き出した。

 「こんなに血が出てる怪我は、大したことないなんて言わない。重傷って言うの」
「そんな大袈裟な……」
「大袈裟じゃない! とにかく、医務室に行かなくっちゃ!」
「……お、おい……」
「山内君、お願い。ここに後藤って子がもうすぐ来ると思うの。その子に先に帰って、って言っておいてもらえるかな?」
「ほいさ、任せて」
「ありがと。さあ、山中ちゃんは手を出す!」

 綾原は髪のリボンを解き、取り出したハンカチとで俺の右手を縛り上げた。

 「さあ、その手を挙げてっ! 前へ進めっ!」

 綾原は俺の後ろに回ると、俺の背中をぐいぐいと押して歩き出した。

 「全く! 馬鹿じゃないの? そんな傷を負っておきながら黙っているだなんて」
「授業も終わりだったからいいだろうと…… それに、これ位のことで騒ぎ立てるだ なんてみっともないじゃないか」
「何がみっともないよっ! もし、指の神経が切れてたりしたらどうするつもりなの? 片手で一生過ごすつもり?」
「そんな大袈裟な……」
「片手で滴定出来る? 右手でビューレットを操って、左手でフラスコが振れる?  正確な値が出せる? 絶対に無理よっ! 両手がちゃんと揃っての私達なのよ。 みっともない、で済ます話ではないわ。科学者、分析者の一生を棒に振るつもり? 変なところで気を使って…… 馬鹿じゃないの?」
「綾原、そこまで言う? たかが中指一本じゃないか」
「うるさいっ! 怪我人には口答えする権利はないっ! ほら、腕下がってるっ!」

 綾原は俺の背中を押しながら、ぶつくさと文句を垂れ続けていた。廊下ですれ違う学生達が次々に振っては緩い苦笑を噛み殺している。俺は気恥ずかしくなってきて肩越しに綾原を振り返った。

 視界の端っこで、文句の言葉と共に小さなつむじが上下を繰り返している。俯いたために流れ別れた髪の間から覗く細いうなじが見え隠れする様子に、俺は不謹慎にも見惚れていた。

 「……わっ!」

 ぶつかったのはショートボブがよく似合う女の子だった。黒目がちの瞳をまん丸にして食い入るようにして俺を見上げている。

 「あ、どうもすみません…… あの……?」
「山中ちゃん、どうしたの? 急に止まらないでよね」
「あ、悪ぃ…… 人にぶつかっちまった」
「もう、ちゃんと前を見なさいよね…… すみません。お怪我ありませんでした?」

 背後からの綾原の声に、彼女の目がすっと猫の目のように細くなった。そして、 そのまま一礼すると何も言わずに行ってしまった。

 「……? 変な子ね。感じ悪いの」
「まあ、いいさ。不注意でぶつかったのは俺の方なんだから」
「山中ちゃんがそう言うのならいいんだけど…… ところで、医務室ってまだ?」
「え?」
「え?」
「お前が知ってるんじゃなかったのか?」
「知らないわよ。山中ちゃんが歩いていくから……」
「お前が押すからてっきり……」
「……」
「……」
「それに、ここ、どこ?」

 見慣れない廊下だった。

 教授らしいネームプレートが掛けられたドアがずらり、と並んでいる。どうやら、  俺達は研究室棟に迷い込んだようだった。俺達はぽかん、とお互いの間抜け面を見合わせていた。

 「もー! 山中ちゃんって馬鹿?」
「さっきから大人しく聞いていりゃ、馬鹿、馬鹿って! 一体、何様だ、お前わ!」
「馬鹿だから、馬鹿って言ってるのよっ! それに、あんたにお前呼ばわりされる 筋合いはないわよっ!」
「っ! 何だと!」
「……うーるーさーぁい」
「何よっ!」
「何だよっ!」
「……うるさいから、痴話喧嘩をここでやるな」
「は?」
「え?」

 がっしりとした体躯に白衣を引っ掛けた人が、いつの間にか開いたドア口にいた。洗浄ブラシに三角フラスコを突き立て、それを器用に回しながら、眼鏡の奥の瞳がニヤニヤと楽しげに笑っていた。

 「俺はな、今、とーっても忙しいんだ。痴話喧嘩なら他所でやってくれ」
「痴話喧嘩なんかじゃありませんっ!」
「当人達からすればそうかもしれんが、傍から見れば痴話喧嘩の何者でもないさ。ふん、青いな」

 綾原が猛然と突っ掛かっていったが、その人はそれを軽く鼻先で笑いいなした。

 「おい、そこの彼氏。こっちへ……」

 その人は洗浄ブラシと三角フラスコをくい、くいっと振って部屋へと入って行った。俺達は仕方なくその後に続いた。そこはやはり研究室だったらしく、見慣れたガラス器具や薬品、機器が雑然と並んでいた。その人は慣れた様子でひょいひょいとその間へ潜り込んだ後、消毒薬の瓶と脱脂綿を持って戻って来た。

 「ごちゃごちゃ言うより、その指の傷の手当ての方が先だ。残念ながら、医務室はここと真っ向反対の棟にあるんだ。まあ、その辺に適当に座れ」

 そう言われて初めて、俺は右手を挙げたままの格好だったことに気が付いた。 指先に巻かれたハンカチが赤く染まっている。その人は綾原に消毒薬の瓶と脱脂綿を押し付け、薬を取って来るからと言って消えた。


 「かなり沁みると思うけど、それはあんたが悪いんだからね。我慢しなさいよ。 ……いい? つけるからね」

 キュッ、と刺すような痛みに一瞬、眉根が寄った。しかし、次の瞬間、俺はゲラゲラと笑い出していた。

 「な、何よ? 痛みで頭がどうかしちゃった訳?」
「いや…… お前、今、俺よりも痛そうな顔してたから…… それで……」
「っ! 馬鹿っ!」

 綾原は真っ赤になって拳を振り上げた。俺はとっさにそれを左手で受け止めると、意識するつもりもなくそれを手前へと引いていた。ふわっとした髪が頬に、柔らかい圧力が俺の上半身に圧し掛かって来た。全身の血が一気に頭へと駆け上る音を俺は確かに聞いた。

 「あ…… 綾原…… 俺…… ごめ……」

 他人のように聞こえるそれは、確かに俺の声だ。突然のことにカラカラに掠れ、 もどかしい位に物が言えない。ばくばくと鳴り響く心臓は口から飛び出しそうだった。

 「ば…… 馬鹿っ! 嫌い…… 大っ嫌いっ!」

 突き飛ばされ、俺はスツールから転げ落ちた。尻餅をついて見上げた綾原は、 顔を真っ赤に染め上げて俺のことを見下ろしていた。引き結んだ唇は震え、瞳にはなんとも言い難い光が揺らめいていた。その時になって初めて俺は自分の軽率さを呪った。

 綾原は脱兎の如く、部屋を飛び出して行った。急に静かになったその後には、消毒薬の瓶とスツールと俺とが仲良く床に転がっているだけだった。

 「……よお。いい格好してんのな。彼女はどうした?」

 あの人が薬を片手に、床に転がったままの俺を不思議そうに覗き込んでいた。

 「……あ。……ああ、綾原は……」
「嬢ちゃん、綾原って言うのか? お前のその白衣からして、お前ら、応化か?」
「はい。二年です」
「ふうん…… じゃあ、さっきの嬢ちゃんが……」
「……」
「ほら、いつまでもしょぼくれてないで立て。傷を見せてみろ」

 俺はのろのろとスツールに座り直し、言われるがまま右手を差し出した。そして、手際良く消毒して薬を塗られ、包帯を巻かれていく様を他人事のように眺めていた。

 「あの…… 綾原のことを知っていらっしゃるんですか?」
「話だけだがな。ここの院生の長谷川さんが、いたく彼女のことを気に入っていて、実験補助の日は「綾原ちゃんの日」と呼んでご機嫌なんだ」
「はあ……」
「いつもにこにこしてて、ちっちゃくて、妹みたいでかぁーいいんだとさ。それはもう、その熱の入れ様は、見てるこっちの方が恥ずかしくなっちまう位だ」

 俺は綾原の今にも泣き出しそうな顔を思い浮かべた。軽率な俺なんかよりかは、落ち着きある院生の方がずっとあいつにはいいのかもしれない。そう、俺なんかよりずっと…… 俺の頭の中は混乱の極致でぐるぐるぐると回り続けていた。

 そんな中、ドアノブの回る小さな音が響いた。

 「おっ! 噂の長谷川さんのお帰りだ」
「……っ」
「長谷川さん、さっきまで例の綾原ちゃん、が来てたんですよ。タッチの差ですよ。
惜しかったですね」
「っ!」

 あまりのタイミングの良さに思考が停止した。 胃が冷たく縮むような鋭い感覚がすうっ、と身体を貫いていった。変に身構え、ビクビクしながらドアの方を窺う自分が情けなかった。それでも、俺は固唾を飲んでその瞬間を待ち構えていた。

 「えっ! 嘘? やだ、本当なの? どーして引き止めておいてくれなかったのよ」
「仕方ないですよ。俺、知らなかったんですから」
「もう、いつも話して聞かせてるでしょ。吉村くんほどの人だった…… ら? ら?」
「……あ。お邪魔してます」
「……はい。こんにちは……」

 勢い良くドアを開けて入って来たのは、長い髪を後ろで束ねたほっそりとした女性だった。

 「ついさっきまで彼女、こいつと二人していたんですけどね。 つい今しがた帰ったみたいなんですよ」
「……なんだ、それは残念。でも、ま。彼氏がここにいるんだから、また来る機会も巡ってくるでしょうよ」
「ちがっ…… 俺はそんなんじゃないですよっ!」
「君のその白衣の色。どう見たって薬品の色じゃなくて、口紅の色なんですけど? 色男さん?」
「えっ!」

 俺の左胸にピンクの跡が残っていた。

 綾原のものだった。俺はそれを指摘されたことよりも、あいつがそれなりに化粧をしていたことの方がショックだった。どんなに子供、子供していても女なのだ。

 「やあね、この子。本当に馬鹿正直なんだから…… 知ってるわよ、山中 拓くん。いつも綾原さんのこと、見てるでしょ?」
「な、何でそれを…… そ、それに名前まで……」

 長谷川さんはほつれ毛を掻き揚げるようにしながら、悪戯っぽく笑った。

 「私さ、院生だからあなた達の実験補助に出てるんだけど? 気付かなかった? あの子、小さい割に目立つものねぇ。それに、応化は女の子は少ない所だし…… 結構、人気あるのよね。知ってた?」
「……はあ」
「いい人やるのも大変よねぇ…… ねえ、自分が損してるって思ったことない?」
「……」

 俺は彼女の問いに対して何と答えていいのか分からず、黙って俯いた。

 「お茶でも淹れようね、色男さん。いい機会だから、ゆっくりしていきなさいな」

 長谷川さんはいそいそとばかりに足音を響かせて隣の部屋へと消えた。俺はどうしていいのか分からずに、傍らの吉村さんを阿呆のように見上げるばかりだった。

 「は、長谷川さんって女の方だったんですね……」
「男だったらどうするつもりだったんだ?」
「っ! あ、あの…… その…… えっと…… あの、そんなつもりじゃあ……」
「男がこうまで顔を赤らめるのをこんな間近で見る機会ってそうそうないよなぁ……」

 がっはっはとしたその豪快な笑いに、 俺は今日一日で幾つ踏んだかも知れない地雷の数を更に増やしてしまったことに気付いて臍を噛む思いだった。

 「……あの」
「その馬鹿のような真っ正直さ、思いっきり気に入った! 時々、遊びに来い。横山教授の攻略法位なら教えてやる。応化で横山教授が攻略出来たら、単位は安泰って言われてるだろ?」
「あ、ありがとうございます」
「ただし、綾原ちゃんと一緒じゃないと、この私がここの敷居を跨がせないからね〜」
「長谷川女史、それはいい考えですね」

 コーヒーのカップをトレイに載せた長谷川さんがにこにこと笑いながら入って来た。

 「……それじゃあ、きっと無理ですよ…… 俺……」
「……?」

 長谷川さんの淹れてくれたコーヒーは、熱くて苦かった。 長谷川さんの言葉は、苦くて痛かった。胸が痛かった。俺はただひたすら途方に暮れるばかりだった。


 あれから痛みは鈍い疼きへと変わり、俺を悩ませ続けている。
女々しい奴と自嘲しながらも、闇の中で何度も寝返りを繰り返すばかりだった。



恋心   決戦は金曜日




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