「りとりとこりと」(5月2枚目)
Home  りとりとこりとTop .



 「なんで、とも…… 神先生が体育の授業にいるんだ? 数学だろ?」

 柔道着姿の理人が半眼を向ける先にはジャージ姿の伴迪。

 「午後の必須武道の補助を頼まれた」
「?」
「武道が初めての一年生達には、道着の着方から始めんとならんだろう?
帯の結びから始めたら李木(すももぎ)先生や東先生だけでは手が足らん。
という訳で、その辺の雑用手伝いにな。俺は体育の免許は持ってないよ」
「高等部の人がいるだろ? 道着や帯の締め位、高等部の人が見てくれれば
いいじゃないか。そんなに難しい事でなし」
「蝶々結びよりも帯を締める方が早く出来たお前にとっちゃな」
「単に暇潰しに来たと素直に言えよっ! このぼんくら教師!」

 理人の突っ込む声と五限目開始のチャイムとは同時だった。




 「まず、相手の襟をしっかり掴む。そして、それを離さずに相手の身体を
腰横に引き寄せながら、自分は身体を前に折るようにして軽くしゃがむ。
人間、都合よく身体は伸び縮みしないからな、襟を掴まれた相手は自分の腰の上に乗ったような感じで一緒に下に沈む事になる」
「……」
「上半身を引っ張られたままの相手は、頭が下になって爪先立ちになる。
踵が浮いてバランスが崩れた所を腰を横に捻り、相手を払い落とすんだ」
「……」
「それに対し、大腰は自分の背中へと引き上げた相手の腰を抱え込んで前へと落とす。こんな風にな…… 分かるかぁ?」

 李木が女教師の東の体をゆっくりと腰から落として見せた後、一年生達を
ぐるりと見回した。元気な返事と曖昧な困惑が微妙に混じっている。
李木はそんな空気に緩い笑みを浮かべた。

 「口であれこれ言うより、まずは実戦かな…… 晴樹」
「うす」
「んー、相手は誰にしようかな〜」

 高等部から立ち上がったのは、いかにも柔道部としたごつい体の男子生徒。気まず気に中等部の生徒が視線を逸らす中、一つの声がその間を渡り抜けた。

 「理人、前へ」
「えーっ! こういう時は、現役バリバリのたけうまか古田だろ? なんで、俺なの? それっておかしいだろ?」

 中等部側から抗議の声が上がり、伴迪はにやりとした笑みを放つ。

 「面白いから。いいから、前へ出ろ」
「嫌だっ! 横暴、馬鹿ともっ! 公私混同の職権乱用!」
「先生に向かって馬鹿言うな、ぼけ」
「んじゃ、あほんだらっ! ろくでなしっ!」
「ったく…… それが先生に向かって言う言葉かよ」
「今はそれ、関係ねぇよ」

 理人はきーっと歯を剥き、その態度に伴迪は苦笑を噛む。そのやりとりを
見ていた李木がにやりと笑みを浮かべた。

 「ほほう、神先生のおすすめは合気道のボンボンか? それは面白いな。
よし、大城戸。前へ」
「え〜」
「だったら、赤点」
「李木先生も横暴……」

 ぶつぶつとぼやきつつ理人が立ち上がった。その背中に遙香は同級生達と
一緒になって頑張れ〜、と送り出しの言葉を掛ける。ちら、と肩越しに振り
向いた理人の顔は、まるで駄々をこねて泣き出す寸前の幼児。遙香は笑って
囃し立てながら、ひらひらと周りに合わせて手を振った。その向こう側、
高等部の間からは「きゃあ〜 体育祭の時のちっちゃいあの子〜」という
黄色い声が上がっていた。




 理人は赤畳の前に立ち、道着の襟元をぱしん、と小気味良い音を立てて引き正す。そして、気合いの入った声と共に赤畳を踏み越えた。

 進み来た理人に高等部の先輩は怪訝そうに李木を振り仰いだ。

 「え? あんな小さい子でいいんですか? 俺……」
「構わんよ。一種の無差別級って奴だな。ぷちМ-1だ」
「はぁ……」
「んじゃ、始めるか? 両者、ここへ」

 大小の対戦者達を開始線前に招いた李木は自身の背筋をすっと正した。
それを機として、理人と高等部の先輩も正面から相対する。片やいつにない
視線の低さに戸惑いを表し、もう片方は憤然と顎を上げていた。

 「両者、互いに礼っ!」
「お願いします」
「お願いしますっ!」
「――始めっ!」

 開始号令と同時に理人はさっき正したばかりの襟を乱暴に引き崩し、腰を
落として身構えた。駄々っ子のへの字だった口許は真一文字。間合いを計る
相手の動きを見据える瞳には凜とした静かな色が射していた。

 普段は馬鹿を言ってへらへらと笑う理人しか知らない遙香は、不思議な
違和感に首を傾げる。何がどうと上手く説明は出来ないが、なんとなく目を
離してしまうのが勿体無いと思わせる何かがそこにあった。遙香はそんな
一挙動に吸い寄せられるように固唾を呑む。

 先輩はその背を生かし、理人の奥襟を上から掴んだ。理人が投げられると
思った者は瞬間的に顔を伏せた。それ位に両者の体格差は大きい。

 しかし、理人はそれを気にした素振りもなく、そのままぶつかるようにして先輩の懐へと飛び込んだ。その勢いを殺さずに理人が眼前の右襟を深く捻り
上げると先輩の野太い踵が浮き、上半身には揺らぎが生じていた。

 「ちっ!」

 先輩から低い舌打ちの息が漏れた。理人はそれに一切構わずに、己の奥襟を掴む二の腕を両手で抱え込む。

 「よいぃっ、しょぉぉぉぉっ!」

 甲高い声と共に浮いたのは理人ではなく先輩の巨体。理人に掴まれた腕を
軸として、その背中は見事な放物線を描いていた。腹に響く超弩級の重低音が武道場を駆け抜ける。

 「一本っ! それまで!」

 一呼吸遅れて沸いた歓声と審判の声が響く中、理人が縋るような視線で
伴迪を振り返った。それを受けた伴迪は生徒達を掻き分けて前へと出る。

 「ともたん、ど、どーしよう…… 先輩、落ちた?」
「やっちまったなー 払い腰、大腰の説明をしてるってぇのに、調子に乗って一本背負いなんかで投げた罰だ。馬鹿か、お前」
「ごめん…… つい……」
「ま、目を開けて気絶するなんて芸当、普通は出来ねぇからな」

 理人と伴迪が覗き込む先には瞬きもせずに呆然と天井を見上げている先輩がいた。そこに李木のくすくすとした笑いが割り込む。

 「ボン、気にするな。こいつの鍛え方はそんな柔じゃない。そんな情けないベソ掻き顔をするな。 本当に落ちたかどうか位の事は分かるんだろ?」
「……はぁ、まぁ……」
「はは。こいつ、油断しやがった。みっともないよなぁ……」
「すみません」

 首を竦める理人の髪を掻き混ぜながら、李木は豪快に笑った。

 「勝者に謝られる事は、武道を志す者にとって最大の侮蔑だと思うが?
どうかな?」
「あっ…… はい、すみません」
「面白いなぁ、お前……」
「……」
「ほい、行った、行った〜 模範演武、ありがとさん。神先生と一緒に戻れ。東先生と授業を続けていいよ」
「失礼します」

 理人が作法通りに丁寧に退場するのを見送った後、李木は未だに寝転がる
むさい頬をぺしぺしと叩き上げた。

 「晴樹、起きろ〜 昼寝の時間にゃまだ早いぞぉ〜 目を開けたまんまで
寝るなんて芸当、俺はお前に教えたつもりはないぞ〜 おーい、起きろ〜
しっかりしろ〜」

 のっそりと身を起した晴樹は、騒ぎ立てる同級生の間で小さく縮こまる
理人の背中を見遣りながら呟く。

 「……李木先生。あのちびっこ、一体なんなんですか?」
「合気道の家の子だよ」
「合気道と柔道をやってるんですか?」
「去年の市内小学生の八位入賞者だそうだ」
「――っ! なんで、それを先に言ってくれないんですか……」

 春樹の抗議に対し、李木はしれっと言葉を返す。

 「始めの合図の瞬間、ボンが襟元を引き崩したのを見なかったか? それで経験者だと気付かなかったお前が悪い」
「はあ…… そう言われれば確かに……」
「しかも、お前の苦手な左組み手だったしなぁ……」
「あんな小さな素人が…… 左組み手で来るなんて思いもしませんよ」
「素人だという変な思い込みに騙されて見事に返り討ち、か?」
「……」
「まあ、今回は良い経験をしたと思って、これからも精進しろ 」
「はい……」

 李木は悄然と項垂れる背を叩きつつ、声を上げて笑っていた。




 「大城戸っ!」
「ああ?」
「あんたんちって、合気道道場やってるって本当?」
「そうだけど?」

 武道場から教室へと戻る道すがら、遙香は理人を呼び止めた。

 「私、合気道をやるわ」
「はあ? 何を唐突に……」
「それであんたんちも儲かる訳だから、文句はないでしょ?」
「いや、それとこれとはどーでもいい話なんだけど。お前の話が見えない」

 遙香の話の展開に付いて行けず、理人はふらふらと首を振る。

 「うちの父親、私に武道をやれとうるさいのよ」
「ふうん…… ここには柔道部だって、空手部だってある。それに入れよ。
部活は金取らない。うちは中学からは一般部と同じで、結構掛かるけど?」

 理人が不機嫌そうに眉間に皺を寄せると、遙香はにっこりと笑い返した。

 「毎日汗だくになって、筋肉ムキムキになりたくないのよ」
「んな事知るかっ! そこまで筋肉付くって、どんなレベル目指してんだ? 阿呆か、お前」
「その点、合気道ってスマートな感じじゃない?」
「イメージで物を言うなっ! 合気道だって一時間で汗だくなんだぞっ!」

 理人が吐き捨てても、遙香はどこ吹く風とばかりに涼しげ。

 「それに、毎日じゃないでしょ? 週二位のお稽古でしょ?」
「火・木曜の夕方と、土曜の午後と、日曜の午前のコマから好きに選んで基本週三だ。これって、土日の休み無しって事だぞ? いいのかよ?」
「どうせ土曜の午前は学校ですもの、部活に入るのと大して変わらないわ。
土曜のお稽古は何時から?」
「……二時半から」
「学校が終わって、お昼を食べたら良い時間だわね」
「まあ、な」
「という訳で、今度の土曜日に入会希望者を案内してよね」
「……」

 遙香はお願いとも確認ともとれる形で首を可愛らしく傾げ、むっつりと黙り込んでしまった理人を覗き込む。

 「ね?」
「……そんな意味の無い動機でうちに来んなっ! ぼけーっ!」
「それはあんたが決める事じゃないわ。じゃあね、お願いね〜」
「えぇ〜」

 遙香は一方的に言い置き、他の女子達と連れ立って教室に入ってしまった。




5月3枚目に続く




Home  りとりとこりとTop .


Copyright(C) 白石妙奈 all right reserved since 2002.7.10
QLOOKアクセス解析
inserted by FC2 system