「りとりとこりと」(4月7枚目)
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 日暮れ前に降り出した雨は、時間が経つにつれてその勢いを増していた。
校舎の正面玄関の抑え気味の照明の下、そんな雨を眺めて佇む人影一つ。

 「あれ? 枚田先生? お帰りになられたんじゃ? もう八時過ぎ……」
「あら、篠原先生」

 校舎奥から近付いて来た足音に振り返った美桜はにっこりと微笑む。

 「傘をお持ちでないのですか? でしたら、私が車で駅まで送りますが?
この雨脚ではきついでしょう? この際、ご自宅でも構いませんよ」
「いえ、そこまでしていただく訳には……」
「枚田先生」
「は? はいぃ?」

 篠原が急にぐっと前に踏み込んで来た。美桜は徒ならぬ雰囲気に反射的に
身を引いたものの、その背をコンクリート壁が冷たく押し返す。そこからの
横移動を音高く壁に突き立った篠原の両腕が阻んだ。頭を覆い囲まれる形で
動きを封じられた美桜は、引き攣った硬い笑みを浮かべつつ篠原に問い質す。

 「あ、あの? 篠原先生? これって、何の冗談でしょう?」
「このまま…… 一緒に食事なんてどうです?」
「も、申し訳ありません。先約がありまして、ここで待ち合わせを……」

 篠原の誘いをひらひらと散らす手が強引に取られた。突然の手首の痛みと、そこはかとない怯えで美桜が顔を歪ませる。

 「篠原先生……?」

 おどおどと上目遣いで伺った先には、艶っぽい笑みを浮かべる篠原。端正な顔立ちのそんな蠱惑的な笑顔はある種の麻薬や凶器に等しい。

 「な、な、な、なんでしょう? 私…… あの、何か……」

 首を竦めて俯いた美桜のおとがいに指を掛け、篠原はそれを引き上げた。
驚愕で強張る美桜に構わず、篠原は紅茶色の髪をゆっくりと掻き揚げる。
そして、露わになった美桜の耳朶に篠原は甘い囁きの花を挿し込んだ。

 「今晩、そのまま一緒に…… どうです?」

 美桜は身動ぎ一つしない。ただ大きく目を見開いているだけ。そんな様に
笑みを浮かべた篠原の手が美桜の肩から脇腹、腰の曲線へと辿り滑る。
その脱力したような美桜を抱き寄せた篠原を制したのは、車のクラクションと校舎奥からの騒がしい足音達。

 「お待たせ! 尚ちゃんが変にもたついてさ〜 年は取りたくないね」
「ごめんなさいねぇ、美桜ちゃん」
「……郷田さんっ! 宅原さんっ!」

 二人の熟女の登場に我に返った美桜は、篠原の腕の中から逃れていた。

 「事務部の主任と…… 用務員の奥さん?」
「私、報告書作成のお手伝いをさせていただいてたんです」
「あなたが事務や用務の手伝い? そんな残業代も付かない無駄な事を?
こんな遅くまで若い女性を引き止めるだなんて」
「あら? みんなか弱い女性なんですけど?」

 篠原の忌々しさの混じった呟きを受け、美桜はにっこりと微笑み返す。
そんな二人の間に再びのクラクションが響き、ワインレッドのプリウスが
雨飛沫を跳ね上げて階段下に躍り込んで来た。それを迎える美桜の瞳には、
先程迄とは明らかに違った明るい色合いの光が射している。

 「この子はね、これから私達の奢りでご飯を食べに行くのよ」
「残念だったね、色男さん。あたし達のアイドルを横取りするんじゃないよ。この子はあんたのものじゃない。まだまだあたし達の宝物だからお返しよ」

 往年の熟女達は意味深に笑いながら、美桜を自分達の方へと引き寄せる。

 「美桜ちゃん。無駄に濡れないよう、一息で駆け下りな!」
「は、はいっ! それでは…… 篠原先生、失礼しますっ!」

 篠原に一礼した後、美桜は熟女達の後を追って雨の階段へと身を翻す。
その先に座す横顔を認めた篠原の唇の端が歪んだ。敢えて合わさないが故の、蒼い稲光の如き視線の火花が散る。激しい無音の、静かで激烈なる争い。

 やがて、雨闇の中に消え行く赤い光を篠原は無言で睨み付けていた。




 「何を珍しく校内でクラクションを鳴らすのかと思えば……」
「この雨の中、合図を出して一息に階段を下りてもらうのが一番でしょ?」
「とも、お前もうかうかしとれんのぉ。わしらのパシリとして扱き使われて
おらなんだら今頃どうなっていた事やら」
「何の事でしょう?」
「ほほう? いっちょ前に惚けるのか?」
「別に…… おっしゃる意味が分からないだけですが?」
「ふん…… まあ、いい。今はそういう事にしといてやる」

 篠突く激しい雨音に往復するワイパーの規則正しいリズムと、後部座席の
女達のお喋りに紛れて話すは宅原。前方に並ぶ赤いテールランプの河から目を離すことなく淡々と受け答えるは伴迪。

 どうにも煮え切らないやり取りに宅原は苦笑を浮かべる。そして、窓に
左頬杖を突き、ハンドルを握る伴迪のぎこちない指の硬さと強張った横顔とを楽しげに眺め遣っていた。




「4月8枚目に続く」




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