「菖蒲池の姫竜」
私は「菖蒲池の姫竜」と呼ばれている者です。
本当の名前は忘れてしまいましたが、私は遠い昔にこの地に仕える巫女でした。 この一帯はある時、酷い長雨に見舞われました。作物は実りを見ることなく次々と立ち腐れてゆきました。民は飢えに苦しんでいましたが、それ以上に一帯を流れる川の氾濫に怯え暮らしておりました。 この地の巫女でありながら、何も出来ずにいる己に忸怩たる思いを噛み締めて いたある晩のことでした。私は水神、龍神様が年老いた我が身を憂い、天に帰り たいと泣き伏している夢をみたのです。私は迷わず、この夢のことを皆に話し ました。皆は半信半疑でしたが、私は巫女としての己の能力に自負がありました。 この長雨は、龍神様の望郷の涙であると。神代の昔から私達を護ってくれていた龍神様の御恩に報いるのは今だと。私は皆を説得し、迷うことなく八百万の神々に誓いを立て、御仏方の慈悲に縋って、龍神様の池にこの身を沈めました。 ゴボゴボという耳障りで嫌な音と、徐々に暗さを増していく冷たく澄んだ碧の水幕。そして、どうしようもない息苦しさの果てに喉の奥からつっかえるようにして溢れた白い泡がゆらゆらと立ち昇って消えて行くのを見送りながら、私の意識もゆらゆらと途絶えて行きました。これが私が人として覚えている最後の感覚です。 ふと次に気が付くと、そこは温かな澄んだ碧一色でした。 どこまでも静かで穏やかな、そして、何もない寂しい場所でした。 そんな碧の中に、夢で見たあの龍神様がぽつん、といらっしゃいました。 私がここへと来た経緯を話しますと、龍神様はもったいなくも何度もお礼の言葉を述べられ、その美しく長大な身を翻して天へと昇って行かれました。龍神様が 昇られる時、厚く垂れ込めていた雲の切れ目から射し込んだ光にきらめく御姿の 美しさと、空に大きく掛かった虹の鮮やかさは、今でも私の心にしっかりと刻まれております。 龍神様を見送った後、私は譲り受けた五色の宝珠を抱えて途方に暮れました。 勢いとはいえ、私のような未熟者に龍神様の後釜が務まるのであろうかと、私のしたことは本当は正しかったのだろうか、と心許ない溜息を一人吐くばかりでした。そんな折、抱えていた五色の宝珠が急に輝き出し、そこには、雨が上がって作物が実るようになった瑞々しい田畑と、元気に駆け回っている子供達、それらを見守る民の笑顔が浮かんでおりました。私はそれらを前に、声を上げて泣きました。 それから、私は五色の宝珠に雨の降らせ方から、川の流し方、池の治め方など水に関する全てを教わりました。この五色の宝珠は厳しくも優しい先達であります。幸いなことに、近隣の神々もこのような出自の私でも快く受け入れて下さりまして、陰日向の様々な御助力を賜りながら、今日まで何とか水神としてのお役を務め させていただいている次第でございます。 そして、この地に住まう河童や人魚、天狗や山姥等の人の目には見えない者達も集って来てくれるお陰で、私は寂しい思いをすることなく穏やかな日々を過ごす内に時は流れ、いつしか私は「菖蒲池の姫竜」と呼ばれるようになり、小さな祠までも 作っていただけるようになっておりました。 ……もう、どうなってもいい。生きていたって仕方ない…… ……いっそ、このまま…… 何? この暗い思念は? 誰が悲しんでいるの? こんなに哀しいのは何故? 人魚がまた何か? いいえ、違うわ。人魚は何かあるとすぐに私の甘えて纏わり 付いて来る。それに、こんな苦しい泣き方を一人でするような子達ではない。 私は河童達と一緒に池の水面へと顔を出した。 頭上には月読尊に蒼く染め上げられた天上が広がっており、その御光を受けた私の池も蒼く光っている。天照尊に照らし出された池もキラキラと眩しくて美しいのだけれど、こういう時の池は神秘的な色合いでこれまた美しい。私はいつもこんな光景を観る度に神仏の慈悲に感謝していた。 池の片隅にぽつねん、と人影が佇んでいた。 目を凝らしていると、人影の向こうの藪から黒い影がものすごい勢いで向かって来た。それは、天狗の子供だった。私が問い掛けるより早く、天狗の子供は甲高い早口で捲し立て始めた。興奮気味の要領の得ないものだったが、簡単に言えば、あの人影はこの菖蒲池に自殺をしに来たらしい。 まあぁっ! 私の池で自殺ですって? この龍神様からお預かりした池で何てことをっ! 何としても止めなければっ! この池を汚させてなるものですかっ! と、勢いよく気色ばんでみたものの、私にはまだ充分に力を操ることが出来ない。かと言って、このまま黙って指を咥えて見ているつもりもない。そんなことをすれば、私は神仏方に申し訳が立たないではないか。 私は必死で考えた。 が、焦れば焦る程、考えは麻のように無駄に乱れるばかり。どうすべきか、と私は河童達と共に首を傾げるばかりだった。 突然、五色の宝珠が私の左脇の水面から立ち上がり、きらりと光って霧散した。何を、と訝しむ間もなく、私はいつもの気楽な単の着物ではなく、高く髪を結い上げ豪華な着物を纏った気品ある姿へと変わっていた。 ええーっ? この姿で私にあの者の前へ出ろと言うのですか? 私がそうそう人前に現われてもよろしいのですか? 鬼火などでちょっと怯えさせて追い払うだけではいけないのですか? 本当に私が? 大丈夫でしょうか? 私の姿に見惚れている河童達を前にぐずぐずと渋っていると、さっさと行けっ、とばかりに五色の宝珠は私を突き飛ばしていた。その思いもしなかった衝撃と状況にくらくらとしながら、私は水面へと立ち上がっていた。 「そこな娘。ここで何をしておるかや? ここは、そちのような者が夜更けに出歩くような場所ではない」 私の誰何の声に、俯いていた人影はのろのろと顔を上げた。ほっそりとした少女だった。金茶色の髪の下から覗く瞳はどこか虚ろで弱々しく、その奥には暗く哀しい色が見える。この感じ、確かに先程感じた気と同じものだ。 「……この池に何かいるって本当だったのね。なあんだ、もっと恐ろしい怪物でもいるのかと思ったのにさ……」 「ここは妾(わらわ)の池じゃ。立ち去れ。さもなくば……」 「さもなくば? さもなくば、私を殺してくれるの? いいわ、殺してよ…… どうせ 私なんて生きていたって仕方ないんだから…… 菖蒲池の姫竜に殺されるなんて素敵だわ」 私の脅しに怯えた様子もなく、かえって恍惚とした表情を浮かべて、彼女は池へとふらふらと足を踏み出してきた。 「ええいっ! 妾の池をそちのような痴れ者が汚すではないわっ!」 その唯ならぬ様子に私が思わず池の水を大きく跳ね上げると、ざざんっ、という水音と共に水柱が立ち、彼女の足元へと水しぶきが叩き落ちた。濡れた靴先を 呆然とした表情で見詰めながら、彼女はその場に立ち尽くしていた。 「そちは妾が何者かと知っておるようじゃな? 何故、妾の池を汚そうとする?」 「昔々にこの池に身を投げて、この一帯を救ったという巫女様でしょう? いいじゃない、私もこの池に身を投げたって。姫竜様も身を投げたんだし……」 「馬鹿にするのも大概にせいっ。そちと妾では志が違いすぎるわ。そちの場合は、未来永劫、冷たい闇の中を彷徨うだけじゃ。愚かなことをするでないわ」 「……結局、誰も私を死なせてくれないのね……」 彼女は弱々しくそう呟くと、堰を切ったように激しくすすり泣き始めた。 たちまち何かを感じ取った天狗や山姥達が闇の中からわらわらと現われ、慰めるように背や肩へと手を差し伸べ始めたが、哀しいかな、人の子である彼女には全く見えてはいない。 「そち、名を何と申す。妾でよければ、聞いてやろうぞ」 「……神様って、何でも一瞬で分かってしまうものじゃないの?」 「神とて色々とあるのだ。悩みとは人に聞いてもらうだけでも何とかなる場合も 往々にしてある。さあ、何なりと申すが良い」 話せ、といきなり言われて、はい、そうですか、と話せる者はそうはいないだろう。それに、内容が内容なのか、彼女はおどおどと周りを見回して迷い続けていた。 周りは重い暗闇が支配しており、風もそよとすらも吹いていない。痛いばかりの 静寂が立ち込めている。唯一の救いは、月読尊の蒼い光だけだった。私は彼女が話し出すのを待つことにした。 「……私の名前は、青井静香」 「静香か…… 女らしい良い名じゃ」 静香は私の言葉に自嘲気味に笑うと、肩に掛かった髪を振り払った。 その長い髪は月読尊の光を受け、変に金色めいた輝きを放つ。 「金髪って珍しい? そうね、姫竜様にとっては珍しいかもね…… ピアスなんて姫竜様には野蛮行為そのものよね。耳に穴を開けるんだもの。マニキュアも、膝が出てるようなタイトミニも変な感じなんでしょうね? それから……」 静香はくすくすと笑いながら、色々な物の名前を挙げていた。 「そう馬鹿にするものではない。妾とて、それ位のことは知っておる。妾達が祠や社に篭っておるなどと勝手に決め付けるでない。神仏方は現在、過去、未来、何時いかなる場所にも存在しておられるのだからな。そち達の生活位、百も承知だ」 「ふうん…… そうなんだぁ…… じゃあさ」 「それよりも、そちはまだ本題を話しておらぬ」 「……」 「逃げてどうする? まあ、逃げるだけ逃げてみるのも、また一興ではあるがな…… それは苦しいだけの茨の道でしかないがの」 「……」 「で、挙句の果てに自殺をして、永遠の苦しみに叩き込まれるとは笑止なものよ」 「……だってっ! だって、しようがないじゃないっ!」 私の挑発に乗った静香は、今までの虚ろさが信じられない程の激しさで吠えた。力無く垂れ下がるだけだった両腕には力がみなぎり、キッ、と睨み返してくる瞳にはギラギラした炎が灯っていた。私はその一瞬の激しい変化に、たじろがずには いられなかった。噴き出した感情の波は私だけではなく、周りを取り囲んでいた 者達をも荒々しく薙ぎ倒していった。 「何が、しようがない、じゃ。やる以前から出来ないと決め付けてどうする? そういうのを負け犬の遠吠えと言うのじゃ。きゃん、きゃんとうるさいだけ」 「やったわよっ! 思い付く限りのことは全部っ! でも…… でも、駄目なものは 駄目って時があるんだからっ!」 「……」 「神様はいつだって、何だって可能かもしれないけれど、人間には…… 私には…… どうしようもないことだってあるんだからねっ! そんな知った風な、 勝手なこと言わないでよっ!」 静香は燃える瞳で、真っ直ぐに私のことを睨み返している。私を竜神として畏れた風もなく、ただ自分を不当に窮する者として。 「そこまで竜神の妾(わらわ)に対して物が言えるのに、何故、逃げる? それほどまでに強き魂を有しておるというのに、何故、逃げる?」 「それとこれとは違うわ…… 私は神様のように凄烈に生きるなんて出来ないもの。元々は人間だった姫竜様には…… 姫竜様になら、分かるでしょう?」 一転して静香は縋るような眼差しで私を見上げていた。 「分かる…… かもしれぬが、詳しい話を聞かない限りは妾には何とも言えぬ」 「……?」 「妾は仏ではない。御仏方ならば慈悲の御心で全てを救って下さるであろうが、 妾は元は人とはいえ、今では神の端くれ。神とは己に誓い、この誓いに添って行動する者にのみ力を貸す。だから、今の妾では何とも言えぬ」 「じゃあ、姫竜様は私を救ってくれないの?」 「ああ、救えぬ」 「そんな……」 私の言葉に、静香はあからさまな落胆の色を見せた。 「しかし、神は誓約を立てた者に対しての助力は惜しまぬ。自力で救われようと する者に対しては、最大限の助力を約束する」 「……」 「だから、妾は話せと申しておる。そちが抱えている問題に、自らの力で立ち向かうのであれば、妾は何某かの手助けをしてやれる」 静香は何度も言いかけては止め、また口を開きかけては唇を噛み締め、 頭を振り、拳を握っての葛藤をいつまでも繰り返していた。 そんな静香の周りを、その所作に一喜一憂する者達がぐるりと取り囲んでいた。そんな中で山姥が静香の肩口を妙に気にしつつ、私にチラチラとした視線を送っていた。そこには淡く消え入りそうな儚い光があった。 見上げると、月読尊は中空をとうに過ぎ、傾きを大きくし始めている。 これでは埒があかないまま、天照尊をお迎えすることになる。 「これでは話は進まぬな…… ならば、妾の方から問わせてもらうおうかの…… そちの傍らに儚き魂が寄り添って来ておるようだが、この魂に覚えは?」 「っ!」 静香はびくんっ、と大きく身を震わせ、おどおどと周りを見回した。やがて、静香は諦めたような大きな溜息を吐くと、苦しげに言葉を押し出した。 「……私の ……赤ちゃん、だと思います。亮一と私の…… でも、でも、周りはこの子のことを許してはくれなかった」 「やはり、な……」 静香はこれをきっかけに、堰を切ったように話し始めた。しゃくり上げて泣いたり、卑屈な笑みを浮かべたり、地団駄を踏み鳴らして怒ったりと様々な表情を見せて 静香は語った。 静香は見た目とは違い、まだ高校生だった。 静香は大学生の亮一と恋に落ち、そして妊娠した。二人の両親は驚き、お互いに責任を激しくなすり合った。静香の身体、二人の気持ちなどは微塵も考えずに。 ただ世間体だけを気にして。 先に参ってしまったのは亮一の方だった。お互い楽になろう、終わりにしよう……彼はそう力無く呟いた。彼もまた世間の目には勝てなかったのだ。こうなっては、 もう静香を支えてくれる者はいなかった。今回のことは親友にすら話していなかったので相談を持ちかける相手も、庇ってくれる人もいなかった静香は、泣く泣く我が 子を手離さざるを得なかった。 運命とは残酷なもので、打ちのめされた静香に更なる追い討ちを掛けた。 まだ心と身体の傷も癒えない半年後、亮一が突然婚約したという噂を耳にした。亮一はとある有力会社の一人息子だった。今回のような不祥事があっては大変とばかりに彼の両親が見合い話を進めたのだという。不祥事扱いされたのはいいとしても、それをすんなりと亮一が了承したということに静香は激しく動揺した。いつかほとぼりが冷めた頃に、と固く約束してくれた筈なのに。 静香は事の真相を確かめるべく、亮一の通う大学の門の前で待ち伏せていた 静香の前に現われた亮一の傍らには上品そうな女性の姿があった。唖然とする 静香の姿を見付けた亮一は、あからさまな不快感を浮かべながら何も言わずに 通り過ぎて行った。後には絶望に打ちひしがれる静香だけが取り残された。 この件以来、両親は静香を腫れ物でも扱うように接し、気まずげにまともに目すら合わせようとしないという。学校へも行き辛くなり、とうとう退学した。そして、程なく、静香は死を選ぶ決心をした。 「そちはとんだ愚か者じゃな」 「どうしてっ! こんな私なんて、生きていたって仕方ないじゃないっ! 私が死んでも誰も悲しんだりなんかしないわ。お荷物が無くなって清々するでしょ。どうして姫竜様は私を死なせてくれないの? 私を可哀想だと思ってくれないの?」 「思わぬ。 何度も言うが、妾は仏ではないからな。 仮に妾が仏であったとしても、同情こそすれど、自死を認める訳にはゆかぬ」 「っ!」 「そち、こうは考えはせぬか? どん底まで落ちたならば、後は這い上がるだけと。ここで負け犬になってはいけないと」 「……思わなかった訳じゃないわ。でも……」 「自分の思い通りにならなかったから、 親身になってくれる人がいなかったから、と申すのかえ? だから、そちは愚か者だと申しておるのじゃ」 「……?」 「今、そちの周りには、人には目に見えぬ者達が沢山寄り添っており、その中にはそなたの赤子も混じっておる。赤子は今のその母者の姿に泣いておるが…… 我が分まで生きてはくれぬのかと……」 静香はハッ、としたように、きょろきょろと周りを見回したが、哀しいかな、静香の目には何も捉えることは出来ない。まるで乞うように私のことを見上げてくるが、 残念ながら私の力では何も見せてあげることは出来ない。 「それに、そちの両親も必死でそちの行方を探しておるようなのだが、な。そして、そちの友人達も一緒のようだ」 「嘘っ! あの人達にとって、私は邪魔者でしかないんだから! 居なくなった方がありがたいんだからねっ! 嘘よっ! それに、友達は知らないもの。そんなこと、絶対にないっ! でたらめ言わないでよっ!」 「やれやれ…… 強情な娘だの」 私は五色の宝珠を左手に乗せ、静香へと差し出した。静香が何かに憑かれた ように身を乗り出して覗き込むと、宝珠はゆっくりと輝き出した。 光の中には一組の男女が浮かび上がっていた。男の顔には深い苦悩が刻まれ、女のやつれた顔にかかるほつれた前髪が痛々しい。二人、共に思い詰めた表情をしていた。次に浮かび上がってきたのは、静香と同じような年頃の娘達だった。 娘達は深刻そうな顔を見合わせた後、真夜中の町へと次々に散って行った。 誰もが探していた。 「お父さん…… お母さん…… 雅美に律子、敦子まで……」 「皆、そちのことを探しておる。ご両親は己の間違いに気が付いて。 友人達は事情は知らぬが、そちの行方が知れぬと聞いて。 皆、そちを心配してこの夜更けを走り回っておるのじゃ」 「……」 「これを見ても死ぬと申すのであれば、妾は止めぬ。 勝手に死ぬがいい。そして、後悔しながら未来永劫の闇の中を彷徨うがよかろう」 「姫竜様…… 私……」 静香は声を詰まらせ、滂沱の涙と共に五色の宝珠を見詰め続けていた。 「行くのか、静香」 「はい。姫竜様のお陰で、私は間違いを犯さずに済みました。姫竜様の仰る通り、私には這い上がるしかないんですよね? 後は幸せになるしかないんですよね? 私は一人ぼっちだと思っていましたが、それは私の独り善がりだったんですよね? 辛い時には遠慮なく両親や友達に頼れば良かったんですよね? 今になって ようやく気が付きました。私、ここに来て本当に良かった。ありがとうございました」 泣くだけ泣いた静香の目は腫れぼったいものだったが、笑顔は爽やかだった。 天照尊の光を受けて輝くそんな静香を祝福するように、小鳥のさえずりが辺り 一面に響き渡っている。 「静香は笑った顔の方が良いな…… 妾も池を汚されずに済んで何よりだ。 さ、行くがよい。皆が心配しておるぞ」 「はい、ありがとうございました。失礼します」 静香は深々と一礼をして踵を返した。そんな静香の肩口で、淡い魂の光が溶けるように消えた。山姥や天狗、河童達も静香を手を振って見送っていた。 「静香っ!」 「はい?」 「妾に何か誓いを立てて行け。そうすれば、妾はいつでもそちに力が貸せる」 私の呼び止めに振り返った静香はしばらく考えた後、不敵な笑顔で答えた。 「私は世界一の幸せになることで、亮一に心から後悔させてやります。 ……これでいいですか?」 「ああ、そういうのも悪くはないな…… そちの誓い、この姫竜、しかと聞き届けた」 「ありがとうございます。良い報告が出来るよう、頑張ります」 静香はもう一度深々と一礼をすると、朝の緑の中へと消えて行った。 しっかりとした足取りで、二度と振り返ることはなかった。 私は菖蒲池の姫竜と呼ばれる者です。 まだまだ未熟者の、半人前の竜神です。 でも、それでも、一生懸命務めを果たしているつもりなのです。 挿絵 /稲野巧実様 |