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 「かわいいあの娘」
 「こらーっ! 栗原っ! 掃除をサボるんじゃなーいっ!」

 HR終了と同時に教室を飛び出そうとした俺の前にでん、と立ちはだかったのは、鬼の形相の委員長だった。

 長いお下げ髪に銀の眼鏡。成績は抜群。性格も面倒見も良くて、先生達の信頼も厚い。次期生徒会入りも噂されている。まるで絵に描いたような、典型的なお嬢様委員長だった。ただし、それは黙って座っていれば、何事も起こらなければの話。

 「うるさい! 俺は掃除どころじゃないんだ! ボールが俺を呼んでいるんだ!」
「掃除どころって…… それって随分な言い方ね! みんなちゃんとやってるのよ。 自分一人だけズルしようたって、そうはさせないわっ!」
「悠長に、ちんたらと掃除なんかやってられっかよっ! お前も言うこと為すこと一々かてーんだよ。ちっとは融通利かせろってっ!」
「あんたはいっつも、いっつもそんな勝手なことばっかり言ってっ! そんな不道徳なことばっかりやってるから、先週のT校との練習試合、一番大事な場面でミスキックして負けるのよ」
「な…… 何でそれを……」
「おーっほっほっ! 神様やお天道様はね、日頃の行いをちゃんとお見通しなのよ。正義はね、何でもお見通しなのよ」

 委員長は憎たらしいまでの華やかな笑みを浮かべ、狼狽えた俺の隙を潜るようにして、手の中へと箒を捻じ込んでいた。どこからともなく、委員長を賞賛する拍手と声とが、その勝ち誇った笑顔の向こうから鳴り響いていた。

 ……完敗だった。


 蹴ったボールは青空へと舞い上がり、落ちた先は見事に白いラインの外だった。勢いそのままに転がって行くボールに、仲間の漏れた溜息が俺の背中を打つ。

 「あほーっ! 栗原、何、やってんだっ!」
「はは…… 悪ぃ、悪ぃ……」
「へらへら笑ってないで、ボールとって来いっ」

 俺は笑いながら片手を挙げて合図すると、ボールを追って駆け出した。

 「……ええっと、確かこの辺に…… どこに行ったのかな、ボールちゃん」
「お探し物はこれかい、少年?」

 どこか抑えたような笑い声と共に、ボールが俺の顔面に真っ直ぐに飛んで来た。それを寸でのタイミングでかわすと、そこにはくすくすと笑う委員長がいた。

 「あれ? 委員長、何でこんな所に? 今日は土曜日だろ? 今日は補習なんかなかっただろ? 忘れ物でもしたのか?」
「あら、私がいちゃいけない訳?」
「いや、そうじゃないけど……」

 俺の質問に挑むような笑顔を浮かべた後、委員長はその顔の横に何やらひょい、と掲げ挙げた。

 「これ、なーんだ?」
「スケッチブック…… ああ、委員長、美術部なんだ」
「ざーんねんでした。漫画研究部でーす」

 委員長は手にしたスケッチブックを肩に担ぎ上げながら、かんらかんらと楽しげな笑い声を上げた。

 「漫研かよ…… だったら、部室でゲンコウ、でも描いていればいいじゃねえか」
「そうしたいのは山々なんだけどね。デッサンの課題が出来てないのよねぇ」
「へえ…… デッサン、なんて美術部と同じじゃないか」
「まぁ、ね〜 やっていることはそう大して違わないわね。でも、美術の先生は私達を低俗だって言って、同等の部として認めてくんないのよねぇ。漫画もアニメも今では文化として認められてきているこの時代に何、頑ななこと言ってんだか…… 他人のことより自分ちの部員が普段何を描いてるのか知ってるのかしら?」

 委員長は何かを思い出し、それを皮肉るかのような苦笑を浮かべた。

 俺も委員長の言葉につい先日の休み時間の出来事を思い出した。ゲームの攻略話をやっているのだと思い、不用意に女子の話の輪の中に突っ込んでえらい目に遭ったことを思い出した。

 「ああ、クラスの美術部の女子が教室で読んでたドウジンシ、って奴か? あれ、あれはちょっと…… 女子が学校でああいうのを堂々と読むのは…… ヤバくね? 委員長もああいうのを描くのか?」
「活動に関しては基本的に自由だけど、うちの部ではあれだけは禁止されてるわ。十八を越えてない者がやっちゃいけませんって…… うちの顧問、そういう所は変に厳しいのよね」
「はは、そうなの?」
「顧問の先生が社会のルールを破ってよしなんて言えないし、それで監督責任取らされたりしたら堪らないものね。私達もそんな下らないことで、部の雰囲気がまずくなるのは嫌だし…… あんただって自分の不始末のせいでチームが試合に出れなくなったら嫌でしょ?」
「ああ…… そうだな。うん、そういうことなら俺にも分かる」

 俺は委員長の説明にこくこくと頷いた。

 「どうしてもやりたいならば、あと二、三年待てばいいだけ話。酒や煙草と同じよ」
「……はあ…… そんなもん? あれって、そんなに危なげなものなのかよ?」
「ああいうお子ちゃま行動は正直言って困るのよね。学校や公共の場で堂々と…… 自由の意味を履き違えるのは困ったものよね。あれと同等に一括りにされるのは、いい迷惑ってものよ」
「はは。それはご愁傷様で……」

 俺はげんなりと肩を竦める委員長に、笑いながら合掌して見せた。

 「うちの顧問、美術部に対抗してか、人物デッサンに関してだけは厳しくてねぇ…… 週に何枚か課題を出さなくちゃなんないの。人物デッサンなら美術部にヒケを取る子はうちにはいないわよ」
「へえ…… で、何で委員長だけが課題をクリア出来てないんだ? 勉強か?」

  俺の言葉に委員長は鬼の首でも獲ったような、にっこりとした笑顔を浮かべた。俺は仕掛けられた地雷を踏んだことをその笑顔で一瞬で悟った。

 「どこぞのお馬鹿ちゃんがさ、しょっちゅう掃除当番をサボってくれるものだから〜 その尻拭いしていたら時間がなくなってね〜 土曜日はゆっくりと作業出来る筈なんだけどぉ…… こうして外に出て課題を消化してるって訳なんだけど」
「うっ……」

 確かに、グランドにはサッカー部を始めとして野球にバレー、陸上と色々な部活の連中で溢れ返っているので、デッサンモデルには事欠かないだろう。そして、こうして時々、グランドに出てデッサンをしていたというのならば、先週の試合のことを知っていた理由に合点がいく。

 「……あ、その、でもさ。委員長が漫研とは今まで知らなかったよ…… 委員長の成績ならもっと…… ほら…… 何だ…… すごく意外って奴?」
「もっとお堅い、お上品な部活だと思ってた? はは、それは偏見って奴ね」
「え、いや…… そういう訳じゃあ…… ああ、ごめんっ」
「私はね、漫画家になるのが夢なのよ。毎年連続で長者番付に名前が載るような、超売れ筋作家になるのが夢なの」
「は? そんな学年トップの成績なのに? 漫画家? もったいねぇ……」

 俺のぼやきに委員長は片手を腰に当て、もう片手の人差し指をちっ、ちっ、ちっ、と小刻みに揺らしながら言った。

 「何を言うか、少年。創作活動に無駄な知識なんてものは、これっぽっちもないのだよ。色々な事に興味を持って、知識の裾野を広げていくというのは創作する者の基本姿勢、大前提なのよ。知らないことを知ろうと一生懸命努力した結果、たまたまああいう成績になっただけのことよ」
「たまたま、かよ…… それで学年トップ…… 世の中、不公平だよなぁ……」
「努力もしないで、ただぼやくだけなんて後ろ向きな姿勢は感心出来ないわ、少年。でもね、私はこれでもまだまだ自分に磨きをかけなくてはいけない段階なんだから。私はもっともっと自分を磨き上げるの。そして、いつか必ず希望の星に辿り着いて、キラキラ星のように輝いてみせるんだから」
「……は、はは…… どうか頑張ってください…… 陰ながら応援します」
「あんたの夢は何? Jリーガー?」

 笑顔で覗き込みながらの言葉に、俺は詰まってしまった。自慢じゃないが、今まで将来のことについてなんて深く考えたことなんてない。せいぜい次の試合のことと、明日の小テストをどうくぐり抜けるかという程度の将来しか考えたことがなかった。

 「俺にはそんな実力ないよ。俺はちんたらと仲間とボールを蹴るのが楽しいだけのレベルだよ。そうだなぁ、強いて言えば…… 安定した公務員かな」
「……公務員?」
「下手なサラリーマンよりいいだろ?」
「あっはっはっ! 公務員〜 そう、それもいいわね。今では公務員も夢の職業!  いいネタもらったわ〜」
「何だよ…… 夢だけでは食っていけないんだぞ! もっと足元を見てだな……」
「掃除当番一つ守れないあんたがそんなこと言う訳? お笑いね」

 委員長は腹を抱え、膝をバシバシと叩き上げて笑い出した。それは目の端に涙を浮かべるほどの大爆笑だった。俺はそんな委員長に何も言い返すことも出来ずに、ただしかめっ面をするばかりだった。

 やがて、委員長はほうほうの態で笑いを収め、じゃっ、と額に片手を掲げて挨拶をすると校舎の方へと歩き去って行った。

 そんな男前な後姿に向かって、俺は小さく溜息をついた。

 「……まったく…… 頭のいい奴の考えることは分かんねぇよなぁ……」
「……おーい! 栗原ー! ボールはどうしたー? あったのかー?」
「ああっ! 悪ぃ、悪ぃ! すぐに行く!」

 仲間の呼び声に応えて、俺はボールを蹴り上げた。高々と空へと舞うボールに、胸を張って自分の夢を宣言する委員長の顔が重なった。教室での少し取り澄ました顔でもない、俺を追い掛けての鬼の形相でもない、くるくると留まることなく変化する思い掛けない笑顔。

 「お堅い女かと思ってたのに…… かわいいとこあるんじゃねぇか…… ちぇっ!」

 俺は悔しかった。自分の目標を鼻高々に、自信に満ち溢れて語る笑顔に対して。そして、何も言い返せないような刹那的な生き方しかしていない自分に対して。

 そんな俺の悔しさを受けてのボールの行く先は、再び仲間の罵倒雑言を雨あられと浴びるようなとんでもない場所だった。






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