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 「眼鏡越しの空」 (1/6)
 目が覚めた時、切なくて泣けた。 右の手首が妙に痛かった。
 どうしてこれ位のことで泣けるのかは分かっていたけれど、分かりたくはなかった。

 「由衣。頼まれていた本、借りてきたからね」

 ぼけっと頬杖をついて薄曇の朝の空を眺めていると、美奈がテーブルの上へと 数冊の本を置いた。

 「あ、サンキュ」
「はい、忘れない内にカードは返しておくね」
「ごめんね。手間を取らせちゃって……」
「いいよ。実験続きで時間をきっちり合わせるのは難しいようだしね。気にしないで」
「水越先輩と一緒だったから楽しくって仕方なかった、て? いいな、彼氏持ちは」
「馬鹿ね。あんただって……」
「?」

 美奈は緩いソバージュの髪を揺らしながら薄く笑った。

 「それはそうと、あんたが夕御飯に降りて来ないっ、て食堂のおばちゃんが心配 してたわよ。帰ってくるなり何も言わないで部屋に篭ったりして…… 何かあった?」
「別にそんなに大したことないよ。ちょっと…… そう、ちょっと具合が悪かっただけ」
「ふうん…… ならいいんだけど…… 何かあったら言いなさいよ」

 美奈はそう言って自分の部屋へと消えた。

 置かれた本をパラパラと捲っていると、一枚のカードを見つけた。裏表紙の後、 本来ならここにある筈のないカードが残っていた。一番最後に美奈の字で書かれた私の名前。その先には私と同じ学部を示すナンバーを持つ人の名前がある。その力強い筆跡に、私は今朝方に見た夢を思い出した。

 大学の並木道をしゃんと背筋を伸ばし、ゆったりとしながらも堂々とした足取りで歩いていく背中。穏やかな日差しを背に受け、歩を進める度に髪が揺れていた。 私はその背中を追いかけていた。一生懸命歩いてみても、距離は全く縮まらない。私がどんなに焦っても、その背中は素知らぬ振りで歩いて行く。私は手を伸ばして叫んでみたが、その声は声にはならずに虚しく宙に消えた。何度それを繰り返してみても結果は同じだった。


 「由衣? 何、ぼけっとしてんのよ。学校、行くよ」
「えっ! あ、はいっ!」

 不意に美奈の声が私を現実へ引き戻していた。身支度をきちんと整えた美奈が 不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。

 「ね、美奈。いい伊達眼鏡してるじゃない」
「いいでしょ? 昨日、見つけたんだ」
「ね、それ、貸して。ね、ね! 今日一日だけお願いっ!」
「ええぇぇ……」
「ね、ね。お願い、お願い」

 私は美奈の服の袖を掴んでぐいぐいと引っ張り回した。美奈は仕方ないなぁ、と 言わんばかりの溜息をついて伊達眼鏡を外した。

 「あー、もう。分かったわよ…… 壊すんじゃないわよ」
「ありがとー、美奈。大好きだよ」
「別にあんたに惚れられてもねぇ……」
「水越先輩がいるから間に合ってますって?」
「野暮を言うんじゃないわよ、お嬢ちゃん」

 美奈は私のおでこをぱちん、と指で弾くと艶やかに笑った。

 ここは某大学の女子寮。このご時世にしては珍しく、各室は相部屋だったりする。で、美奈は私のルームメイトだ。美奈は経済学部、私は応用化学科の学生だ。


 寮の自転車置き場で自転車を引っ張り出している所に、隣の部屋の朱美と玲香がやって来た。

 「おはよう。お揃いでご出勤ですか?」
「おはよう、朱美ちゃん。実習の方は上手くいってる?」
「まあね、お蔭さんで順調よ…… ところでさ、由衣。いい伊達眼鏡してるわね」
「でしょう? 美奈のを借りたの」
「は、道理で…… センスいい筈だ」

 朱美が妙に納得顔でうんうんと頷いた。玲香がぐいっ、と私の顔を覗き込むと感心したように笑った。

 「へええ…… こんなちょっとしたものでも印象が変わるものなのね。幼稚園児が小学生にまで上がったって感じ」
「服飾科の人に珍しいサンプルとして紹介してあげたら喜ぶかもねぇ……」
「あ、それいいかも」
「朱美〜、玲香〜」

 私が軽く睨み付けると、二人は私を宥めるように笑いながら言った。

 「冗談、冗談だってば! 似合ってる、似合ってるよ。すごく可愛い、可愛いよぉ」
「こんな可愛い子が歩いてたら、みんな驚くよぉ〜」
「そんなバレバレなお世辞はいらない。でも、これでみんなを驚かしてやれるかな?」
「みんなって応化の連中のこと?」

 玲香が小首を傾げるようにして尋ねてきた。

 「そう。山中ちゃんを始めとした野郎共をね……」
「ふうん…… 山中ちゃん、ね」
「ほほう……」

 朱美が薄く笑った。美奈と玲香も顔を見合わせて笑った。

 私は野郎共の驚く顔を 想像して笑った。今の私の笑いと美奈達の笑いとが別のものであったと私が知るのは、もう少し先の話……



戦いの火蓋




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