「オパールの蜃気楼」
それは子供の頃に、みんなで共に見る夢物語。誰もがその国へ行って遊び回る。そして、それらは懐かしい虹色の思い出へと変わっていくものだった……
「あら、かいちゃん、久し振り!」 「おう、海璃。こっち来て座れ」 「何が久し振りだよ、渚。昨日、会っただろ?」 「あれ? そうだっけ?」 「スーパーで大泣きしている長男坊を、のほほん母親に引き渡したのは誰だ?」 「あはは、そうでした。ごめーん」 「相変わらずねぇ、渚は」 「ほんと、ちょっと目を放した隙にどっか行っちゃうんだもん。困るよ」 「あはは、子供なんてそんなもんよ。うちの幼稚園でもそんなのがうじゃうじゃいる」 「出た、実玖先生!」 「ふふん、伊達にお猿さん達の調教はしてないわよ〜」 「あのさ、来年、うちの子を実玖の幼稚園に入れたいと思ってるんだけど……」 「渚ん所の長男坊はもうそんな? ついこないだ生まれたと思ったのに。いいわよ、この私が特別にびっしびっしと教育してあげるわよぉ」 「うわ、私、子供が生まれても実玖の幼稚園に入れるのは絶対にやめよっと」 「そんなに遠慮しなくてもいいのよ〜 是非いらっしゃいな、佳乃。歓迎するわよ〜」 「いいっ! まだ子供はいい! 私は渚みたいに十代で結婚する気なんてないし、もう少し自分だけの生活や恋愛を楽しみたいんだもーん」 「あははっ! それも一理あるわね〜」 「何、暢気に笑ってるのよ? 実玖、お猿さん達から彼氏を選ぶ訳ではないでしょ? この場合は普通の会社員の私の方が有利なのよ。お分かり? 実玖先生?」 「相変わらず、佳乃は言い草が可愛くないわよね〜」 「瑛士、就職、どこに決まったって?」 「ああ、お蔭さんで某電機メーカーの技術の方にな」 「それは何より。おまえは昔っから機械弄りとか好きだったもんなぁ……」 「それ、一流メーカーだろ? 俺ももう少し真面目に勉強しておけば良かったよ」 「汰一はいつも後からそう言って後悔するばっかよね〜」 「うっせえ! 渚は黙ってろ」 「ま……」 「まあ、まあ…… 二人共、夫婦喧嘩はやめなって」 「だってなあ、海璃。こいつ、いつだって……」 「いつだって何よぉ?」 「まあ、まあ…… 今日は瑛士の就職祝いの席なんだろ? な? 喧嘩は止めろ」 「……かいちゃんにそう言われたら、適わないわね」 「で、そういう海璃は、親父さんの後を継ぐのか?」 「ああ、ガキの頃から決めてたからな。宝石職人も悪くはないだろ?」 「二人とも格好いいよなあ…… 俺なんて将来はただの酒屋の親父だぜ」 「何言ってんのよ、あんたにはそれで十分だわ」 「うっせえ、その女房はどこのどいつだ?」 「むー」 「まあ、海璃。飲め。たまには店の商品じゃない酒もいいもんだろう?」 「あ、ああ…… って、普通は逆だろ? 主賓が酒を注いでどうするんだよ」 「おっちゃーん、一人来たからつきだしとビール頼むっ」 「はいよ! おや、汰一かいな? こんな所で飲んでたら大将にどやされっぞ」 「今日は瑛士の就職祝いだっつーの。それに渚も一緒だから」 「おっちゃん、ついでにこっちにレモンサワーとライムサワー、お願いね」 「なっちゃんも一緒かいな…… じゃあ、ちび坊は大将が見てるんかいな?」 「ええ」 「そりゃあ…… 後でじじ馬鹿見物にでも行かんとなぁ」 「おっちゃん、それよりも酒と料理、早くしてくれー」 「ああ、悪ぃ、悪ぃ」 「そう言えば、浩平と杏珠は? 今日は来ないの?」 「浩平は仕事で戻れないって。正月か盆に戻るから、その時に呼んでくれってさ」 「ほー、いっちょ前に都会の男してんのね〜 じゃあ、杏珠は?」 「ねえ、海璃。杏珠はどうしたの?」 「あ…… うん。今は蜃気楼の季節だからあいつ、手が離せないって……」 「まだあの子、蜃気楼を追っ掛けてるの? 海璃も大変な子を彼女に選んだものよね」 「いや…… それもまたあいつの仕事の内だから」 「杏珠ってとてもいい子なんだけど、昔っからどこか少ーしずれてるのよねぇ……」 「私、あの子の描いた蜃気楼の絵を園児用の絵本で見たことあるわよ。綺麗よ。子供にもなかなか人気もあったしね」 「ただのぼーっとした子じゃなかったんだ。しかし、あの子は蜃気楼が好きよね」 「蜃気楼ってさ、海の底の貝の吐き出す夢の国だって言ったの誰だっけ?」 「ああ、それは小学校の校長。あの禿ちょびんの校長だ。朝礼の時の話だった」 「ほー、汰一が覚えてるなんて…… 驚きね」 「うるせいっ! でも、あの話はすごく面白くて印象に残ってんだよなあ……」 「あの頃は蜃気楼が出た時には、公園とかでなりきりごっこをして遊んだわよねぇ」 「そうそう! その時に見えたもので、みんなで連想して状況を色々と決めてさ、ゲームやアニメの主人公やテレビのヒーロー物とかになって遊んだよなぁ……」 「ジャングルジムの上が塔のてっぺんで、助けを待つお姫様と勇者とかやったね」 「そういや、勇者になりきっていた渚によ、俺は顔面をジャングルジムの上から思っきり蹴られたことあった……」 「ははん、あの頃から尻に敷かれていたって訳ね?」 「うっせい! 今はOLよぉん、なんてお澄まししておほほ笑いしてる佳乃なんてよ、イチゴパンツ丸見えで走り回っていたじゃねえか」 「うわ…… 汰一、エッチー」 「見せて走っていた奴が悪いんだろー」 「蜃気楼が消える夕方にはさ、みんなへとへとになって家に帰ってたんだよなぁ。あの頃は本当に良く遊んだよ」 「俺達は何故か生傷があちこち絶えなかったよな」 「お姫様達があまりにも強かったからね」 「あら、海璃に瑛士。それって随分な物言いじゃない? ん?」 「……え? あ、いや、そういう訳じゃ……」 「わっ! よせっ! やめろー」 「この際だ、徹底的にやっちゃえー!」 「うわっ! やめろ、酔っ払いっ」 気持ちよく晴れた静かな午後だった。今朝方に冷え込んだお陰で、遥かに揺らめく幻は実にくっきりとしたものだった。僕達は、あの夢の国で思う存分遊んで帰って来た。あの幻は海の底の大きな貝の吐き出すものではなく、暖かい空気と冷たい空気の屈折が生み出すただの自然現象の一つであること、向こう岸が逆さまになった普通の風景だということを僕達は知ってしまった。僕達はもう夢の国の住民ではなくなってしまっていた。時折、懐かしく夢の国に思いを馳せることはあったとしても、夢の国に行くことはない。 でも、たまに夢の国に心を置き忘れてきてしまう者がいた…… 「杏珠……」 「……」 「……杏珠」 「……」 「……」 「……あら? 海璃……」 「今日の蜃気楼は綺麗だね」 「ええ、こんなにはっきりと見えるなんて久し振りよ」 「いい絵が描けそう?」 「そうね…… でも、最近はちょっとスランプ気味かな?」 「そうか…… まあ、スランプは誰にでもあるものだからね」 「私、あの貝の国へ行けたら、もっといい絵が描けるんじゃないかって気がする…… きっとゆらゆらとした綺麗な虹色のめくるめく世界が広がっているんでしょうね」 「杏珠」 「ねえ、海璃はあの国には何があると思う?」 「あの国には誰も行けないんだよ。何も知らなかった昔の人や、子供だけが行けた夢の国なんだ。僕達にはもうその力はない。僕達は大人になってしまったんだ」 「つまらないわね…… そうと知っていれば、私は大人になんかなりたくなかった」 杏珠は遥か彼方にぼんやりと浮かぶ蜃気楼を眺めやりながら、首筋に掛かる長い髪を軽く掻き揚げ、小さな溜息をついた。 「杏珠、これ……」 「なあに? まあ、綺麗な石ね。虹色の貝殻? あなたが作ったの?」 「これは加工前の原石。工房に入ってきた物の中にあったんだ。杏珠にあげる」 「私に? いいのかしら? あなたのお仕事の材料なんでしょう?」 「それを見た時、真っ先に君のことを思い出した。君の所に行く石なんだと思った。だから、杏珠にあげるよ。それはね、シェルオパールっていうんだ。貝殻の化石が非結晶化したものなんだよ」 「まあ、これが化石なの? 化石ってもっとごつごつしたものだと思ってたわ」 「ごく稀にね、そうやって宝石化するものがあるんだ」 「へえ……」 「これはね、太古の貝が吐き出し切れなかった夢の国が宝石になったんだってさ」 「まあ…… 素敵なお話ね」 杏珠は虹色のシェルオパールを翳し上げた。その向こうには、揺らめく貝の夢。 「杏珠」 「なあに?」 「貝の夢の国は今、君の手の中にあるんだよ。儚い幻を追い続けるのは、儚い夢を見るのはもうやめにしないか?」 「……え?」 「いつまでも子供のままではいられないように、夢の国に行ったままではいけない」 「……」 「ねえ、僕の所へ…… 戻っておいでよ」 太古の暗い海の底で夢を吐き出していた貝は、永い永い眠りについた。やがて、眠りを解かれた貝は自身の身体が美しく染め上がっていることに気付く。それは夢見るだけの憧れの存在であった七色の虹の光。ゆらゆらと揺れる光を身に纏い、それは彼女の手の中で密かに太古の夢を囁き始めていた…… |