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 「涙」
 忘れられない一粒の涙がある。

 ふとした折に緩やかな波紋が私の記憶をくすぐるのだ。それはまだ私が何も知らない頃、頑なという名の壁の向こう側からしか世界を覗こうとしなかった頃の話。

 「昨日、一晩泣いたから」

 彼女は微笑っていた。何の前触れもなければ、音らしい音もなく、ただ静かに、 密やかに一粒の涙が零れ落ちていた。

 彼女は私の級友の一人だった。級長と副級長という以外は大した接点はなく、 同じ教室に在籍しているだけというような関係だった。

 ある先生の用事で二人並んで廊下を歩いていた時のことだった。何故かは分からないが、私はその時の彼女に何となく違和感を抱いていた。私の戸惑いを感じたのだろう、彼女は屈託ない笑顔で私に話し掛けてきた。

 「私、やっぱり変かなぁ?」

 自分の不躾を指摘されたような気がして、私は慌ててふるふると首を振った。彼女はそんな私の様子を見て軽く笑い、その笑いを消さないままで言った。

 「昨日、一晩泣いたから…… やっぱり分かる?」

 私は言いようのない眩暈を感じた。

 あの頃の私は不本意な学校に入れられ、正直言って、何も面白いとは思えなくて腐っていた。何の努力もしなくても上位者でいられる生ぬるい状況に毎日辟易していたのだ。外面をどう明るく快活に振舞っても、内面では心を閉ざして周りを冷たく見下していた。ただ過去の失敗を悔やみ、その変えようもない事実と時間の流れを恨むだけの日々を過ごしていた。だから、私には本当の友達はいなかった。

 「泣く」という行為は最も感情の抑えの効かない、 内面を外界や他人に曝け出す最も弱い行為だとあの頃の私は信じて疑わなかった。なのに、彼女は全く悪びれた様子もなく、級友というだけの他人の私に「泣いた」と告白し、涙さえ見せていた。

 私は生まれて初めての衝撃を感じていた。

 その時、私は自分が何と受け答えをしたのかは全く覚えていない。泣いた理由も一切聞いていない。あれから何事もなかったかのように、いつも通りの時間が過ぎ、その流れのままに私達は卒業した。その後、一度たりと彼女に会ったことも、消息を聞いたこともない。

 ただ、ふとした時に色々と思い出すのだ。


 卒業を控えたある日、担任の手伝が一段落して談笑をしていた時のことだった。 自分の母親と大して年の変わらない担任は笑いながら私に言った。三年間ずっと、偶然にも私は担任が変わらなかった。

 「あんたがここに入学してしばらくの間、心から笑った顔を見たことがなかったね。でも、ある時期からよく笑うようになった。友達も多くなったね。私は嬉しかったよ。 あんたのような経緯で来た子は心を閉ざしたまま更に上位だけを目指すか、外面は優等生でも裏ではとことんまで堕ちるか、やる気を無くして去ってしまうかのどちらかだからね。そのどれにも当てはまることなく、卒業して行ってくれるのが嬉しい」

 担任のこの言葉にも、私はまだ何も気付くことはなかった。ただ、そうですかぁ、 と曖昧に笑うだけだった。

 そして、私は社会に出た。社会は今までの守られて当たり前というような甘ちゃんではいられない世界。私はそこで色々と学んだ。自分を押し殺さなければいけないこと、どうしても諦めなければいけないようなこと、腹の立つようなこと、怒りたくなるようなこと、苦しいこと、行きたい所へ行ける楽しさ、欲しいものが手に入る喜び、人からもらう感謝の気持ち、嬉しいこと、面白いこと、ありがたいこと。

 そんな風に世間で揉まれていく内に私はやっと気付いた。
「泣く」ということは決して弱い、愚かな行為ではないということを。

 泣きたい時に我慢しないで、自分の心を誤魔化すことなく泣けるということは、  実はとても勇気が必要であるということに気付いた。泣きたい時に泣ける強さというものがこの世にはある、ということに気が付いた。涙というものは自分の弱い部分をしっかりと認識した上で初めて、表に現れる証だということを……

 彼女は既にあの時、自分の弱さを他人の私にですら認めることの出来る、強くて柔軟な心を持っていたのだ。あれは自分が持っていない強さに触れての眩暈……

 私が頑なに拒んでいた弱さは、実は強いものだということを認識しないまでも、  私は心のどこかで気付いていたのだろう。あの時の彼女の涙は、的確に私の心の壁を崩していたのだ。それがあの衝撃……

 彼女の涙で崩れた壁の残骸は、記憶の底へと深く沈み、時折、緩やかな波紋を 生じさせている。記憶の底で静かな波紋が広がる時、一粒の涙を思い出す。

 あの涙に恥じないような生き方をしているだろうか、と振り返る自分がそこにいる。






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