Home  SSTOP .
 「月長石の祈り」
 こんな月の綺麗な夜は必ず彼女はベランダに姿を現すのだ。

 そして、一人静かに月を見上げ、何事を呟く。まるで月に囁きかけるかのように、繰り返し、繰り返し…… それは神聖なる祈りの言葉なのか、いつ果てるともない呪いの言葉なのかは僕には分からない……


 僕が彼女に気が付いたのは、僕がこの町のこの部屋に引っ越してきた夜だった。引越しの後片付けも一段落し、心地好い疲労感と共にベッドの上でうとうとし始めていた僕の視界に入ってきたのが彼女だった。斜め1つ上の階の張り出したベランダの手すりに頬杖を突くようにして彼女は一人、月を見上げていた。

 僕は見るともなしにそんな彼女の横顔を眺めていた。

 そんな時、不意に彼女が微笑んだ。それは、うっとりとするような甘美な微笑み。口許がわずかに動くのは、何かを呟いているのか、歌を口ずさんでいるらしかった。彼女は手の中に収めていた何かを口許に当てると、また月を見上げていた。

 彼女は恋人のことでも想っているのだろう。その時の僕はそんな風に軽く考え、 そのまま眠りに就いていた。

 季節が変わっても、彼女はまだ月を見上げていた。

 だからと言って、別に彼女が何か特別変わっているという訳ではなかった。時折、町で見かける彼女は明るい笑顔の女性だった。友人達と明るく笑いさざめいて通りを歩いている姿はごくありふれたもので、どこにでもいるごくごく普通の女性だった。

 僕は何となく彼女から目が離せなくなっていた。いつの頃からか、月の綺麗な夜は彼女がベランダに現れるのを待つようになっていた。

 そんなある時、僕は知ってしまった。

 彼女がいつも手の中に納めているのは月長石だということを。時折、彼女の指の間からふと揺らめく柔らかい光は月の光の結晶だったのだ。


 月長石。

 神の声を伝える聖なる石。

 ゆらゆらと水の炎のような白い光を身に纏い、途方もない遥かなる未来までもを 予知していく神秘の石。

 本人の内なる秘められた自分をありのままに映し出す鏡。

 月に恋した石。妖しく無邪気に人の心をかき乱していく月に付き従い、恋する月の悪戯を治めていく健気な石。

 自らと同じく恋するものを守護する優しく愛情深い石。


 彼女は恋占いをしていたのだ。それは、とても心優しい恋占い。月長石をひたした水を口に含み、「彼は私のことが好き?」と月に向かって尋ねるのだ。 Yesの時はそう尋ねた記憶が残り、Noの時は質問したことすら忘れてしまうという絶対に傷付かない心優しい恋占い。

 しかし、傷付かぬ者は決して成長することはない。優しさは、狂気といつも背中 合わせなのだ。

 月と月長石の穏やかな色あいの恋占いは、時に途方もない悲劇を招きよせる。 傷付かぬが故に繰り返し続ける永遠の狂気。それはいつ果てるともない永遠の悲劇。いつしか甘い微笑みは憎しみに醜く歪み、甘い囁きは呪詛の言葉へと変わり、最初の純粋な想いすらも忘れて狂気の底へと身を堕しかねない残酷な恋占い。

 彼女が誰を想ってこの狂気に身を投じたのかは分からない。 僕に分かるのは、彼女の恋は成就しないということだけ。僕は黙って彼女の狂気を眺め続けていた。


 僕は今夜もまたベランダに佇む彼女の姿を黙って見上げていた。

 今夜の月は格別だった。とろりとした乳白色の真珠色に輝く銀盤は、取り巻きの星達の光をすっかり押さえ込み、晴れ渡った群青の夜空に昂然と輝くその存在感は実に圧倒的だった。何もかもが見透かされているかのような、畏怖にも似た気持ちを抱かせるような神秘的な月だった。

 そんな月の光に照らされた彼女の横顔に月の欠片が零れ落ちるのを僕は見た。きらきらきらとそれは後から後から零れ落ちていた。彼女の涙を初めて見たことに僕は今更ながらに気付き、心の底から驚いた。僕の中で何かが軋む音を僕は確かに聴いた。いつしか僕は月長石のペンダントを握り締め、天空に鎮座する白い月に向かって祈っていた。

 月に祈るだなんて……

 いつの間にか、僕は気付かぬ内に月の狂気に足を取られていたのかもしれない。しかし、それでも、僕は月に祈らずにはいられなかった。

 月の光を受けた月長石は、ゆらゆらとその奥底から炎のような光を浮かび上がらせてきた。最初の頃は細い、細い光の筋でしかなかったのに、今では白く輝く光の帯のようだった。白く輝く光はゆらりとその身をくねらせた。

 僕はベランダに出た。

 初めて真正面から見交わした彼女の瞳の色は明るいブルーだった……






Copyright(C) 白石妙奈 all right reserved since 2002.7.10
QLOOKアクセス解析

inserted by FC2 system