「少女時代」
「由衣。
B(ブランク)=47.07。 滴定量36.24。 fc(ファクター)=1.2779。 サンプリング量=0.3568g このヨウ素価の計算、頼むわ」 「……」 「由衣、返事っ!」 「違います」 「……へ?」 振り向くとそこには、黒目がちの瞳が非難もあらわに俺のことを睨み付けていた。 「あっ…… 佐山さん。すんません、つい……」 「いつも、いつも、いっつも、ユイ、ユイ、なんですね? 学生時代のお友達ですか? かなり息の合った方のようですね」 「えっ…… あの、まあ…… 何と言うか……」 「違うよ、智佳子ちゃん。ユイ、じゃなくて、由衣。こいつの大事なお嬢ちゃんさ」 「先輩っ! 何を言ってんですかっ!」 「何を今更、女みたいに照れてるんだか……」 「そんなこと、ここで言わなくったっていいじゃないですかっ!」 突然、降って沸いて出て来たのは、吉村先輩。学生時代もそうだが、この会社に入社する時も色々と世話になったのでどうも頭が上がらない。先輩は新しい玩具を手にした悪ガキのように笑いながら銀の眼鏡をずり上げた。 「彼女さんのことだったんですか? この分だとさぞかし手酷く扱われて……」 「ちっ、ちっ! 甘いよ、智佳子ちゃん。その反対。正反対。こいつの方が綾原の 世話を焼いていたんだよ。そりゃあ、もう、甲斐甲斐しいの何のって……」 「ええっ! 山中さんはそんな風には見えませんよ」 「人は見掛けによらないってことさ」 「へぇぇぇ……」 「いい加減にして下さいよっ!」 俺は怒鳴り付けるようにして話に無理やり終止符を打った。吉村先輩はけけっ、と奇妙に笑いながら白衣の裾を翻して行ってしまった。 「へえ…… 山中さんがそんな風に声を荒げる所なんて初めて見たかも」 「何だよ…… そんな嬉しそうに…… あんまりこんな事、言い触らさないでくれよ」 「先輩に向かってそんな口を利くんですか?」 「……どうかよろしくお願い致します。佐山先輩」 佐山智佳子。俺ときっちり同い年なのだが、彼女の方は高卒で入ったので、一応先輩に当たる。この春からは俺と組むことになっていた。ストレートの黒髪を肩口できっちりと揃えたなかなかの美人だ。 「ねえ、彼女さんって綺麗な方なの?」 「いいや。お世辞にも綺麗という部類には入らないな。やる事、成す事、お子さんで危なっかしい限りな奴だよ」 「へえ…… じゃあ、今は何を?」 「ここと似たような所で、似たようなことをしてる」 「じゃあ、彼氏としては、保護者としては心配で心配でたまならいってところですね」 「あ、ああ…… って、何で俺がこんな事、喋んなきゃなんないんだよっ」 「あ、気付いちゃったか…… このまま喋らせておこうかと思ったのに、惜しいっ」 「もう勘弁してくれよ…… な、この通り、頼むから……」 「ふふ。今日のところはこの辺で許してあげましょうかね」 「サンキュ」 しかし、俺は事ある毎に由衣の名前を口にして、皆からからかわれるのだった。 自覚がなかった訳ではないが、自分がこれほど墓穴掘りだとは思いもしなかった。 「山中さんってば今日はご機嫌斜めさんですよね? 何かあったんでしょうか? 吉村さん、何か知ってます?」 「ん? ああ、放っておけ。何とかは犬も食わぬって言うだろう?」 「もしかして…… 彼女さんと?」 「そういうこと」 「じゃあ、早速、智佳子先輩に教えてあげなくっちゃ!」 「亜由美ちゃん。どうして、そこで智佳子ちゃんが出て来るんだよ?」 「吉村さんには分かりませんよぉ〜だ」 「やれ、やれ…… 十代の女の子の考えることは本当に分からないよなぁ〜…… 本人がここにいるってぇのに…… なあ?」 吉村先輩が人の悪い笑みを投げ掛けてきたが、俺はそれらを完全に無視した。先輩は苦笑を浮かべながらコップにビールをなみなみと注ぎ、それを俺の手の中へとねじ込んだ。 「ま、その、何だ。折角の社員旅行で仏頂面をぶら下げているお前も悪いわな。 しかも、お前は新入社員。下っ端の下っ端だ。酌をして回っていたって罰は当たらん立場なんだぞ? 谷さんがそういうことに構わない性質だからいいものを」 「……」 「どうせいつものことだろうに、何を不貞腐れてんだか…… 阿呆か、お前ら……」 「どうせ……」 「こういう時は嘘でも笑っていろ。それじゃあ、綾原と同じだ」 今は社員旅行の宴会の最中だ。課長の何事にも拘らない大らかな気質もあって、各人が無礼講で賑やかしく飲んでは歌い騒いでいる。 「さあて…… 次のカラオケは誰だーっ? 谷内課長、ご指名をお願いしまーす」 宴会場の向こう側では、カラオケ大会のマイクが何やら大きく叫び始めていた。 谷内課長はひょい、と立ち上がると、自らマイクを取って見事な一曲披露していた。まだ四十代前半という若さで課長という出世頭の筆頭でありながら、ノリのいい実に気さくな御仁だった。 「さてさて、続きましては、我が課の期待の新人の山中君と、綺麗所の佐山さん。お二人でお願いします」 「げ……」 「ご指名だぞ。しっかりやってこいっ! 谷さんの顔に泥を塗るような真似するなよ」 「先輩…… 他人事みたいに……」 「うだうだ言っとらんで、はよう行けっ!」 俺がのそのそとステージに上がると、異様なまでに拍手やら口笛が起こった。 酒が入った集団ほど、この世に恐ろしいものはない。 「おー、由衣ちゃんが出てきたぞー」 「由衣ちゃーん」 「おやおや、山中君は随分と人気があるようですね」 「いや、その…… 別にそういう訳では……」 「それで、この由衣ちゃんとは?」 「あ、その…… どうぞお構いなく……」 「何言ってんだっ! 彼女の名前だろっ! 何、気取ってんだよっ」 吉村先輩の一声で、たちまち会場は大爆笑の嵐だった。俺はステージの上から 先輩を思いっ切り睨み付けたが、先輩は憎たらしい程に悠々と両手を振っていた。俺は何でこんな目に遭わなければならないのかと腹が立つやら、情けないやらで 頭の中が真っ白だった。気遣うような視線を送ってくる佐山さんと共に俺は何を歌ったのかこれっぽっちも覚えていない。ただひたすらこの場から逃げ出したい、とそれだけを考えていた。 やがて、俺はほうほうの態で宴会場から抜け出した。席に戻った後でも次から次へとからかいにやって来る輩は絶えなくて、精神的にも体力的にも限界だった。 ホテルの廊下をぶらぶらと歩いていると、渋い色合いで整えられたソファーに幾人もの人々がゆったりと寛いでいるロビーホールへと行き着いていた。そんな一角に土産物店があるのを見つけ、俺はなんとなくそこへと足を向けた。 「こんばんわ、山中さん。彼女さんへのお土産ですか?」 「……なっ! 何だ…… 佐山さんか…… 驚かすなよ」 「別に驚かしてなんかいませんよ。山中さんが勝手に驚いているだけですよ」 「何だよ、人が何をしようと勝手だろ」 「ふふ、その手にしているオルゴールはどう見ても女の子へのお土産ですけど?」 俺はむっ、として手にしていた品を棚へと戻した。あいつによく似たぽややんとした顔のオルゴール人形がゆっくりとした曲を奏で始め、そんな俺をからかうように、 佐山さんは口許に笑みを浮かべていた。 「……べ、別に…… 別に君には関係ない話だろう?」 「少し位、聞かせてくれてもいいじゃないですか? 事によっては、私にもチャンスが出来る訳なんだし……」 「……は?」 「私、さっき山中さんと一緒に並んでみんなの前に立てて嬉しかったんですよ」 「……へ?」 「みんなの声が私達への冷やかしみたいで…… ちょっと気持ち良かったなぁ」 「あの…… それって……? どーいう……」 「山中さんって意外と鈍いんですね? だから……」 佐山さんが小首を傾げるようにして微笑むと、さらさらと肩口で黒髪が流れた。 「何を言い出すのかと思えば…… あ、あれ程のお子さんは、そうそういなくて…… さ、佐山さんのようにしっかりしている美人さんとは比べようもなくてだな…… その、な、何だ…… あいつは短気な上に泣き虫で我侭で…… 物凄く要領が悪くて…… あの、その…… 何て言うか……」 「あらあら…… そんなにうろたえなくてもいいのに」 「……」 「要するに、好きなんでしょう? 好きで好きで堪らないんだぁ。無意識にそうやって名前が口に登っちゃう位に…… 羨ましいな、由衣さんが…… 妬けちゃいますね」 「はあ?」 俺が言葉に詰まるのを可笑しそうに笑いながら、佐山さんはオルゴール人形の頬に手を滑らせた。 「……本当、付入る隙すらもありゃしないったら……」 「……?」 「さぁてっ、と…… 亜由美ちゃん! 吉村先輩! この勝負、私の勝ちですよっ! 山中さんは私の誘いには乗らなかったわ。約束通り、特大パフェを奢って下さいね」 「んもーっ! 山中さん、何やってんですかぁ〜」 「……」 「山中、お前。阿呆かっ!」 「亜由美ちゃんに…… 吉村先輩……?」 佐山さんの向こうからひょっこりと顔を覗かせたのは、吉村先輩と俺と同期入社の亜由美ちゃんだった。吉村先輩はつまらなさ気に頭を掻きながら、亜由美ちゃんはぴょんぴょんと飛び跳ねながら歩み寄って来た。 「俺のこと馬鹿にしてんですか?」 「別に馬鹿になんかしてませんよ〜 流行りのドラマの真似をしてみただけですよ? ここで男の人はぐらっ、ときてですねぇ…… もう、ノリが悪いったらありゃしない…… 山中さん、もしかしてこのドラマ知らないとか?」 「知らねぇよ、んなもんっ! 人で勝手に遊ぶなっ」 「ええっ! 嘘でしょ〜」 「すみませんねぇ…… 世の流れから遅れてて……」 「亜由美ちゃん。こいつ、おデートに忙しいからこの時間帯は家にいないんだ」 「あっ! そーかぁ、ごめんなさいね」 「先輩…… あんたって人は〜……」 一段低くなった俺の声に、先輩は慌てて亜由美ちゃんの手を引いて逃げ出した。後には苦笑で一杯の佐山さんだけが残っていた。 「ごめんなさい。ちょっとからかってみただけなの…… 悪気は全然なかったのよ」 「ああ、佐山さんが気にすることないよ。俺はあの人の悪戯には慣れてるから」 「彼女さんと何があったのかは知りませんが、早く仲直りして下さいね」 「え……」 「隣で不機嫌そうにむっつり、とされるこっちの身にもなって下さいよね」 「あ……」 「今から電話して謝って、ちゃんとお土産も買ってあげて下さいね。分かりました?」 「あ、ああ……」 「そう、良かった」 佐山さんは二人を追い掛けるようにして行ってしまった。その身を翻す時に見せた一瞬の笑顔が、その後ろ姿が、心なしか痛く感じられて仕方がなかった。 それから二年後、佐山さんが結婚退職をする送別会の席上で、これが思い上がりではなかったことを俺は彼女の悪戯っぽい笑顔と共に知らされることになる…… |