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 「桜雨」
 …… すしゃしゃしゃー、すしゃしゃしゃー…… 
しゃしゃしゃしゃーしゅー、しゃしゃしゃしゃーしゅーん……

 ……ぺたん、ぺたん、ぽてん、ぴた…… 
ぴた、ぴったん、ぽってん、ぺたぺた、ぺったん……

 ……すしゃー、すしゃしゃしゃー・・・ しゃしゃしゃーん……


 なんだろう……? 何だか随分と久し振りなこの感じ……


 一度近付き、そして、そのまま遠ざかって行くこの音。
何かを纏わり付かせたような、何かの上を滑っているようなこの音。
右から左へ、左から右へと次々に流れては消えて行く。

そして、少しずれたリズムを小さく刻む音。絶え間なく続いている小さな音。
上から下へと続いている。 ……なんだろう? なんだっけ……?



 「もう七時よ。今日の部活は朝からなんでしょう? 遅れるわよ。早く起きなさい」
「……え? ……あっ! もう、そんな時間?」
「今日は雨だから早目に出た方がいいわよ」
「雨?」
「天気予報によれば直に止むみたいだけど、あなたが出るか学校に着く頃までは 止みそうにはないわね。だから、早く支度をしなさい」
「はあい……」

 乾いたスリッパの音を従え、母は足早に行ってしまった。私はもそもそとベッドから起き上がり、伸びと欠伸を一緒にこなしながらカーテンを開いた。

 窓の外には、薄紅色の桜があちこちに咲き誇っている住宅街が広がっていた。 沢山の屋根屋根はうっすらと白く霞み、薄紅色を一層引き立てていた。

 時折、視界を小さく遮っているのは雨だれ。ずれたリズムを刻んでいた張本人達。しゃしゃー、しゃしゃーと流れ去って行く音は、通りを行き交う自動車の水音。

 私はもう一度大きな伸びで朝の気だるさと、もやもやをすっきりとさせた。


 ぽた、ぽた、ぽたぽた……

 待ち合わせ場所に立つ私の淡い黄色の傘の先から絶え間なく雫は落ちていた。その向こうには、明るい雨空をバックにした薄紅色の桜の花々。ぼんやりと見ると、それはほんわりとした薄紅のかたまり。でも、よくよく目を凝らして見ると、それぞれ一つ一つが個性を持った花達の集まり。あるものは横を向き、その横顔を透る光に自身の紅色を惜しむことなく分け与えていた。

 あるものは真正面を向いて華やかな笑顔を咲かせ、その隣では視線を逸らすようにしてはにかみ色に染まり、またあるものは煙るような雨粒にも毅然と顔を上げ、 またあるものは楽しげに頭を振りながら雨粒と戯れ、雨粒を避けるようにひっそりと仲間の影へと隠れるものもいた。まだまだ丸くうずくまるようにして淡い夢を抱いているものも沢山いた。

 風らしい風はほとんどなく、ただ静かに、優しく春の雨は降り続いていた。

 「おっはよ〜!」
「遅いっ! 芳野」
「悪りぃ、悪りぃ。この雨でさ、バスが遅れててねぇ…… 参った、参った」
「雨の日はバスは遅れるって分かってるんだから、その辺を考えて行動しなさいよ」
「だから、ごめんって」

 私のくどくどとした小言に対し、芳野は真っ直ぐに揃えて伸ばした指を眉間に翳し、その言葉とは裏腹の全く悪びれた所のない笑顔を浮かべていた。

 「……もう、いいわよ。早く行こうよ。部長さんが遅刻だなんて格好付かないよ? それに、こんなだらしのない部長の率いる部には新入部員なんて入ってこないかも」
「あはは、まっさかぁ…… しかし、春休みにまで部活だなんて、しかも雨降りの日にだなんてさ。ついてないよねぇ」
「あら、そう? 私は雨は好きよ。特にこんな風のない優しい雨は好き。大好きよ。 しかも、桜の下をこんな風に歩けるなんて滅多にあることじゃないわ。こういうのって素敵じゃない?」
「うーん…… 物は考えよう、ね。本当にあんたは雨が好きだよね」
「雨は万物への恵みなんだから」
「はい、はい。ありがたいですよね〜 で、今、何時?」
「八時半、よ…… って、完全に遅刻じゃないっ!」
「ヤバいっ! 急げっ!」

 私達は弱い雨脚の中を慌てて駆け出した。

 「……っと、とっとっと…… 染井、こっち、こっち! 近道っ! 近道っ!」
「えー…… この階段を登るのー?」
「ここを登れば、半分の時間で着くっしょ」
「……その労力は反比例で二倍だけどね」
「いいから、行くよー」

 芳野はまるでそそり立つような急な階段を駆け登り始めた。私達の学校はお城の跡地に建てられたらしく、見晴らしの良い丘の上に立っている。普段はそこへと至る緩やかなつづら折の坂道を通っているのだが、その頂上から真っ直ぐに糸を下ろしたような階段が一本だけ存在していた。

 誰が何のために造ったのかなんて知らない。この階段を使うのは運動部か遅刻切符を切られることを由としない強者のどちらかで、私は今までこの階段を上がったことはない。目の前を実に慣れた足取りで軽快に登って行く踵は、主が後者であることを無言で物語っていた。

 心臓がばくばくと音を立て、足はがくがくと震え、吸うにも吐くにも苦痛を伴う息苦しさに立ち止まった時、階段を登り切った芳野の明るい声が降ってきた。

 「染井、両手の指でファインダーを作って後ろを振り向いてごらん」
「……?」
「いいから! 早く、早く!」

 芳野に言われるまま、私は人差し指と親指とで作った四角の中を振り返りながら覗き込んだ。そして、そのまま、呼吸も時間も、口が開いていることすらも忘れて、 その場に立ち尽くした。

 私の指の額縁の中には、あちらこちらに浮かぶ薄紅の雲を見下ろす七色の虹の橋が掛っていた。いつの間にか雨は止み、幾筋もの光の筋が雲の切れ間から降り注いでいる。優しい雨はいつしかキラキラと光る光の粒となって、淡い色合いの春の空を飾り輝いていた。

 くるり、と眼下から背後へと回転移動した額縁の中には、流れるチャイムを背に 得意げに歯を見せる芳野の笑顔がはまり込んでいた。






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