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 「あくびがしたい」
 「おーい、誰か手の空いている奴はいないかぁ?」
「俺、空いてますよ」
「はい、はーい。吉村先輩、私も空いてまーす」
「山中と綾原か…… まあ、いい。ちょっとダイナまで夜食を買いに行ってくれ」
「それ位、自分で行けばいいじゃないですかぁ……」
「綾原、俺は学会用のデータを明後日までに纏めなくちゃなんないんだよ。そして、お前みたいに片っ端から尻拭いをしてくれるような奴もいないんだ。だから、行け! いいからさっさと行ってこいっ!」
「吉村先輩ってば、横暴っ!」

 私と吉村先輩が睨み合いを始めた途端、私は頭を押さえ込まれるような形で後ろへと引き戻されていた。

 「止めろ、由衣。今のはお前が悪い」
「……拓」
「で、吉村先輩。何を……?」
「適当な物を、適当に頼むわ」
「だったら…… 私が何か作りましょうか?」
「いらん。お前の手料理を黙って食う馬鹿な奴は、この世に一人だけだ」
「……」

 吉村先輩は私を見ることもなく、溶剤をメスピペットで量り上げながら吐き捨てた。たちまち、研究室のあちこちでくすくすと忍び笑いがさざ波のように広がっていく。

 「吉村先輩〜……」

 その続きを言うことは出来なかった。次の言葉を発する前にはもう、私は廊下へと引きずり出されてしまったからだった。

 「もう、拓っ! 何すんのよっ!」
「阿呆っ! 今の研究室できゃんきゃんと騒ぎ立てる奴があるか! 今は吉村先輩以外にも押し迫っている人は大勢いるんだ」
「もし、吉村先輩だけだったら……?」
「放って置くに決まってんだろ。お前があの人に適う筈ない」
「……」

 あっさりと言い放って歩き出す拓の背中を睨み付け、私も仕方なくその後に続いた。



 「あ…… ダイナは今日は臨時休業……? ついてねぇ……」
「困ったわね…… どうする?」
「仕方ない。駅向こうのコンビにまで行くか」
「駅前のじゃ駄目なの?」
「あそこのは吉村先輩の好みに合わないって……」
「あっ、そうだったわね…… 全く、変なところで拘りのある人なんだから……」

 臨時休業と書かれた張り紙が、かさかさと鳴りながらそんな私達を見送っていた。駅へと続く通りは学生で溢れていた。大学生はもとより、高校生、中学生と学生の品評会でもあるのかと思える程だった。そんな流れに乗った私達は並んで歩いていた。

 「ね、拓。そろそろ白衣、洗った方がいいんじゃない?」
「……ん? ああ、そうか?」
「ああそうか、ってねぇ…… それ、ちょっと汚すぎるわよぉ」

 私が襟元を掴み上げると、拓は言われて初めて気が付いたような顔をして自分の汚れた白衣を見下ろした。拓の白衣は試験薬や試料の染みや汚れがだんだら模様になっていて、それはもう既に白衣と呼べるような代物ではなかった。

 「んー、何かついでがある時に一緒に頼むわ」
「あー、もう…… あっ、そうだ。明日、部屋の人の白衣をまとめて洗おうかしら?」
「ふうん」
「あんたの分と、吉村先輩と、山内君、佐々木さんの分もまとめて一緒に洗うわね。確か、石鹸はぁ……」
「吉田さんの机の向こう」
「そうそう、新しいのを置いておいてくれたわよね。気が利く方よねぇ」
「で、気が利かないお子さんは肉体労働でその恩を返す訳だ」

 何だかよく分からないことを話している内に駅を通り過ぎると、周りにあれだけいた学生の姿が消えていた。線路向こうは、閑静な住宅街が広がっている。その一角にあるコンビニへと私達は足を向けていた。


 「忘れ物はない? これで全部?」
「ん…… ちゃんとある」
「しかし、この量は何? どこかの大宴会の買出し? 冬眠でもしようかって?」
「吉村先輩以外にも修羅場ってる人は沢山いるしな。腹が減っては戦は出来ぬさ」

 私が両手にコンビニの袋を持ち上げながら愚痴ると、拓は苦笑気味に笑った。

 「拓ってさ、フォロー上手よね? 将来は結構、出世するんじゃない?」
「お前みたいな考えなしに言いたい放題の方が、世の中上手に渡って行くんだよ」

 拓は小馬鹿にしたような笑いを浮かべ、私はそんな言葉と笑いを完全無視した。外は夕焼けに染まり始めていた。空に浮かぶ雲の色がピンク色からオレンジ色へと少しづつ変わる様子を見上げながら、私達は並んで元来た道を歩いていた。


 「あれ、拓。こんな所に公園がある」
「ああ」
「ね、ちょっとだけ寄って行こうよ」
「全く…… お前はお子さんか……」

 口では仕方がないと言いつつも、拓の足は私よりずっと早かった。私は拓の後を追って公園の車止めの横を小走りで通り抜けた。


 「由衣っ! ここまで来いっ!」
「馬鹿! 小学生じゃあるまいし、何、やってんのよ」
「いいから! すごくいい景色があるから、早く来いっ!」

 悪戯っ子のように笑いながら、拓がジャングルジムのてっぺんから手招いている。いつもは人のことを散々お子様呼ばわりしている癖に、こういう時の拓は必要以上に子供っぽくなる。仕方なく、私は白衣の裾を気にしながらもジャングルジムによじ登った。

 一番上まで登り詰めると、拓が私の背後を指さした。振り返ると、そこには夕陽に染まる街並みがゆったりと眼下に広がっていた。私はそんな光景に見惚れていた。

 「……おっ」

 人が気持ちよく酔い痴れているというのに、この朴念仁は一体何を思ったのか、 ジャングルジムの上から勢いよく飛び降りて駆け出していた。

 「……いっ、せー、のー、でっ!」
「あはは! 下手くそ! もう身体が言うこときいてないわねぇ? もうおじさんな訳? 何、鉄棒にダラダラぶら下がってんのかしらぁ?」
「うるせっ! 久し振りだから勘が取り戻せないだけだ。ごちゃごちゃ言うなっ!」
「まあぁ、強がり? 何なら、あそこにいる小学生達に教えてもらう?」
「ふん」
「ねぇ、君達! 良かったら、このおじさんに逆上がりを教えてあげてくれないかな?」

 私は拓がぶら下がっている鉄棒の隣にあるブランコに揺られながら、遊んでいた 小学生達に声を掛けた。この小学生達は、さっきから公園には場違いな私達のことを珍しそうに眺めていたのだ。そんな私達に声を掛けられて戸惑いの表情を見せたものの、すぐにわらわらと駆け寄って来た。

 「このおじさんね、逆上がりが出来ないの。良かったら教えてあげてくれないかしら?」
「おい、誰がおじさんだ。お兄さんと言えないのか?」
「うーん、この子達からしたら、あんたなんておじさんじゃないの?」
「だったら、お前はおばさん、だろーが」
「つーん、だ」
「なあ。兄ちゃん達、大学生?」
「そうよ。学校で実験ばかりやってたらね、すっかり身体がなまっちゃってんのよ。僕達はこんな大人になっちゃ駄目だからねぇ」

 私の言葉に小学生達はけらけらと笑い転げ、そして、見事な逆上がりを何度もやって見せてくれた。

 「兄ちゃん。足で地面を蹴ったらすぐに鉄棒を……」
「もう少しタイミングを早めにして」
「ほらほら、おじさん。しっかり、しっかりー!」
「おー…… よしよし…… 分かってきたぞ……」

 拓は小学生と二言、三言話した後、勢いよく私に向かって人差し指を付き立てた。

 「見てろ、由衣っ! 俺はまだおっさんじゃないんだからなっ!」

 拓はペッ、と手に唾すると、鉄棒をぐいっ、と逆手に握り、タイミングを計るために二度三度と足を踏み締めた。やがて、気合の入った低い掛け声と共に夕闇に白く白衣の裾が舞い、ザッ、という音共に小石が飛んだ。

 「……よぉぉおっしっ! どうだっ! 見直したか、由衣っ!」
「やったぁぁぁ! 兄ちゃん、やったー!」

 鉄棒の上で拓が得意満面な笑顔を向けていた。その横手で小学生達が我が事のように大喝采を上げていた。私は何だか気恥ずかしくなってきて、頬に右手を宛がいながら馬鹿にしたように鼻先で笑って見せた。

 「そんなことで何、子供みたいにはしゃいでんのよ?」
「はん! 男の意地ってもんが分からないのかよ」
「残念でした。私は女ですぅー」
「誰が女だって?」

 何となく照れ臭い雰囲気を誤魔化すように、私達は憎まれ口の叩き合い戦を展開していた。そんな私達の間に小学生達が割り込んで来た。

 「兄ちゃん、姉ちゃん。俺達、もう、そろそろ帰るわな」
「人前で夫婦喧嘩は程々にしときな」
「は……?」
「はは…… このませガキが! ロクな大人にならないぞ」
「ほな、仲ようしぃなー」

 小学生達は言いたい放題のことを口々に言いながら、元気よく走り去って行った。私達はその後ろ姿を見送りながら、傍らに放置されたコンビニの袋を取り上げた。

 「ねぇ、拓。十年経った後でも逆上がり出来ると思う?」
「何だ? いきなり…… そうだなぁ、十年経ったら俺は本当のおじさんだからな…… 分かんねぇよ」
「ねぇ、出来るって言ってよ。十年後もここで逆上がりをやってちょうだい」
「何だよ……? 何を急に言い出すんだ、このお子さんわ……?」
「いいから! いいから、約束してちょうだい!」
「我侭な奴だなぁ……」
「そんなこと、重々承知でしょう?」
「全く…… お前って奴わ……」

 拓は溜息をひとつ吐くと、コンビニの袋を両手に担ぎ上げるようにして歩き出した。私は慌ててその後を追いかけた。追い付いて見上げたその横顔は、最後の残照を受けて何だか不機嫌そうだった。私は何だか急に悲しくなってきて、拓の白衣の袖をぎゅっと掴んだ。

 「……やれっ、て言うんなら、やってやるよ」
「……え?」
「やってやろうじゃねぇか、逆上がり」
「絶対? 絶対に? 約束してくれる?」
「疑り深い奴は早く老けるぞ。ま、それでちょうどいい位かもな。お子さんだもんな。年齢詐欺師だもんなぁ」

 にっと白い歯を見せて、いつものからかいの笑顔が真正面から覗き込んでいた。私はコンビニの袋を持ったままの拳骨で、その頬をぐぐいっと押し上げた。負けじとばかりに、拓が私の耳を引っ張り返して来る。



 どうか十年経っても変わらずにこの笑顔がありますように……






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